安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「わが心にぞ訪ね入りぬる」のは何のためか?(orimaさんのコメントより)

orimaさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

心を見つめるとよくお聞きするのですが、何となく感情や知識をもてあそんでいるだけになってしまっているような気がしています。

それは、自分の思いで自分の心を見ているから、ということが原因なのでしょうか?

只今救う本願に向かった時の、自分の心を「深く」「細かく」見つめるとはどのようなことなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081226/1230294854#c1231597687

とても大事な質問だと思います。

心を見つめると言いますとなにか、哲学者が自分自身を内省するようなものを想像するかもしれません。あるいは、なにか失敗をしたことを振り返って反省することのように思われるかもしれません。
orimaさんの言われるように「感情や知識をもてあそぶ」状態は、心を見つめるとはいいません。
そこで大事なのは、何のために心を見つめるかという目的です。
浄土真宗の信仰を求めると言うことは、真実信心獲得すると言うことが目的です。真実信心は、阿弥陀仏から賜る信心でありますが、それを妨げているのはほかならぬ自分自身の心だからです。
真実信心である南無阿弥陀仏は、私たちに与えるために阿弥陀仏が成就されたものです。
それを蓮如上人は、

善導のいわく、「南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行」といえり。(御文章5帖目11通・御正忌)

と善導大師の六字釈をたびたび御文章に引用されています。
「発願廻向」といいますのは、「廻向(与える・差し向ける)」ために願をおこされたという意味です。
阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏を私に与えるために作られました。その阿弥陀仏の御心から言いますと、いつでも私に南無阿弥陀仏を与えようとされているのです。
一方私の方は、その南無阿弥陀仏を早く獲得したいと思っています。
それなのに、なぜ現在真実信心獲得の身になっていないのか?それは、阿弥陀仏が与えるのを渋っているからではありません。私の心が、阿弥陀仏をはねつけているからです。
そのはねつけている心がある間は、真実信心獲得の身にはなれません。その心を「雑行雑修自力の心」と御文章にたびたび言われています。南無阿弥陀仏をいただくときは、その雑行がすたる時なのです。
先ほどの御文章には続けて

「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(同上)

と言われているとおりです。

心を見つめるというのは、この「雑行雑修自力の心」を知ることです。知らねば、その心が廃ったと言うことはありませんから、非常に大事になってくるのです。

「自分の思いで自分の心を見る」と言うことではなく、あくまで本願に向かったときに出てくる、または見えてくる心が雑行雑修自力の心ですから、本願に向くと言うことが大事です。

自分の心を「深く」「細かく」見つめるとはどのようなことなのでしょうか?

これは、弥陀の救いを現在求めようとしたときに、種々起きてくる自分の心の動きに敏感になると言うことです。実に信心の沙汰というのは、そういう心の動きを人に言うことで、また人から教えてもらうことで、自分の心を深く細かく知ることなのです。

そういうご縁がないときや、また聞法しているときは、本願にむかったときどんな心が実際起きてくるか、なぜそんな心がおきてくるか注意深くみて、深く自分の心の中を見てもらいたいと思います。「下の心」とも言われるように、日頃はなかなか見えない心ですから。

また、このエントリーを読まれた時の心でも結構ですから、またコメントいただければいいと思います。よろしくお願いいたします。