安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について2(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんから頂いたコメントです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080615/1213533162 コメント欄より)

私が言いたかったことはあらかじめ、「これは方便だよ」と言った上で、方便をやらせると言うのはおかしな話と言いたいのです。うそも方便と言われますが、あらかじめ「これは方便のための嘘だよ」と言っては方便にならないと言うことです。

これに関して最初にお答えします。
真実に導くためのものが方便と言うことですから、「これは方便だよ」と言って、また「どうせ方便なのだから」思っていたらそれは方便になりません。

同じような文脈は、親鸞聖人の教えを聴いている人の中で、よく聴かれる言い方ではあります。
「善を勧められるのは、私たちが善が出来ないと知らせるための方便なんですから、一生懸命善に励みましょう」
言葉上一見間違ってはいないようですが、これを聴いた人は必ず違和感を感じるはずです。

「善が出来ない」と知らされるのと、「善ができない」と結論を知っているのとでは、同じ知っているでも全く異なります。

弥陀に救われた「あれはご方便であった」と知らされるのと、「これは方便なんだ」と聞いているのとでは全然異なります。

弥陀の救いの上でのご方便とは、阿弥陀仏のご方便でありますから、弥陀の19願力、20願力が、救われる前に自覚できるものではないということです。
真実弥陀の救いにあった時、「あれは19願の願力、20願の願力に、引かされたご方便であった」と知らされるものです。

よって、説法の場であれば、これは釈迦の代官として話をするのでありますから、これは方便、これは真実と、すっきり分けて話をしなければなりません。

しかし、そうでない場で、「これは方便だから云々」という話は、やはり合いません。本来仏さまが使う言葉を、人間の目線でいうから違和感を感じるのです。

よく有るケースとして、
「私たちは曽無一善(一つの善もできないもの)とお釈迦様は教えられている」と、言うのは何の問題もありません。言われているのはお釈迦様ですから。
「どうせ私たちは曽無一善だからねぇ」と自分の言葉で自分のことをいうのは、仏さまの言葉を、人間が話すため、どうしても違和感が生じるのと同じです。

「方便がウソ」ということではありません。不要な方便なら、19願も、20願も阿弥陀仏は建てられませんでした。

真剣に18願の世界に向って進む人が、19願の願力で引きづり出され、20願の願力引っ張られて、18願の世界に転入するのです。
これは、弥陀に救われたなら振り返り必ず知らされることであり、三願転入の御文について解説を聞けば、万人共通の体験と言われるゆえんが分かるところです。

時間の関係で続きはまた後日お書きしますが、一つだけ気になるところですが

「佛願の生起本末」を聞かせていただく聴聞や信心の沙汰が、優先的に行うことである。

これはなにかの、ご法話の演題のことのように読めないこともないのですが、仏願の生起本末以外に、仏教はありません。上記の文脈だと「仏願の生起本末を聞かせて頂く聴聞」と「聞かせて頂けない聴聞」があるということでしょうか?

そういう意味で、「三願転入の御文」についてでも、「歎異鈔第1章」でも、「阿弥陀仏の本願」でも、仏願の生起本末を聞かせて頂いているのであって、他には何もありません。
親鸞聖人の教えが、仏願の生起本末以外にないからです。縦の線と横の線をいつも書かれるのは、それをあらわされているのですから。