安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ななしさんより頂いたいくつかのお尋ねにお答えします

ななしさんより、いくつかお尋ね頂いておりますので、お答えいたします。
(全文はこちら)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080613/1213353490#c1213586077

山も山さんは、信心決定されておられますか?

信心決定しています。それをななしさんがどのように思われるかは、ななしさんの自由だと思います。
ですが、具体的な体験をここで書く予定はありません。親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、自身の具体的な体験を書かれなかったのも、弥陀に救われ、教学を多少された方なら分かられることだと思います。
文字上では、真偽は分かられないと言われるかもしれませんが、ななしさんや、ここを読まれている方で、分かられる方には分かられると思います。

「自信教人信」のお言葉は、どのように受け取られておられますか?

自信教人信とは、自らが信心決定し、人に教えて、信心決定まで導くということです。

御文章や、御一代記聞書をよく拝読されているということですが、私も御文章、御一代記聞書はよく拝読しております。
蓮如上人の御一代記聞書から引用しますと

教化する人、まづ信心をよく決定して、その上ににて聖教をよみ語らば、聴く人も信をとるべし (14)

と、ななしさんも紹介されていましたが、言われている通りです。
蓮如上人の仰せの通りと思っております。

ご指摘の御一代記聞書の部分についてですが

ここでは、罪の有る無しを言っているよりも、はやく信心を頂くことこそ大事ですよと言われていると思うのです。
そして、この罪の対象者は、自分であって、他人ではないと思うのです。
自分が信心決定もしていないのに、罪が有るとか無いとか考える前に、まず信心決定が大事でしょう。

ここは、ななしさんの仰る通りです。
ただ、沙汰の場となると、とかく相手の信心についてあれこれいう場面もあり、もともとは、自身のことでも、その沙汰の場では、自分も他人も沙汰の場では問題になるので、そのようにかきました。
罪の有る無しとか、信心を取りたるか取らざるかを、問題にすべきは自身のことであることは全く仰る通りです。

どうして、そのまま読めることを、敢て、「自力が廃った」という言葉に変えるのですか?
返って分らなくなると思います。

>歎異鈔第一章で言えば、「自力が廃った」=「摂取不捨の利益にあずかった」ということですから、
しかし、「歎異鈔第一章」の、どこに上記のお言葉が記されているのですか?
「自力が廃った」のお言葉が無いのに、イコール「摂取不捨の利益にあずかった」と言えるのですか?

これに関しては、もともとのお尋ねが、自力はどういう時に廃るのかというお尋ねでしたので、「自力が廃った」という表現を使いました。
歎異鈔第1章を根拠として出したのは、ななしさんが、親鸞会でお話を最近聴かれている方かと、こちらで勝手に思い、5月の親鸞会館でのご法話の演題「歎異鈔1章」を出した方が、より話が通りやすいとこちらで計らったためです。
「どんな時に自力が廃るか?」というお尋ねに、歎異鈔を出さねば答えることは出来ないということではありません。
歎異鈔1章の文中には「自力」という言葉がでておりませんので、混乱させてしまったようなので、お詫び申し上げます。

どうして、そのように、自力が廃ったと歎異抄にも書いてないお言葉なのに、弥陀に救われた=自力が廃ったことになり、それが火のように分るのですか?
済みませんが、私には、この説明では、全く理解出来ません。
「自力が廃った」のお言葉はどこからの引用か顕かにして下さい。
それから、一つ一つ、教えて頂けたらと思います。

真実信心については、お聖教にはいろいろな言葉で言い換えられていますので、歎異鈔にないお言葉ですが、自力が廃った(弥陀に救われた)という文脈で書きました。歎異鈔のお言葉で言えば、「弥陀に救われた」=「摂取不捨の利益にあずかった」ということになります。


少し前にも書きましたが、「自力がどんな時に廃るのか?」というお尋ねだったので、「自力」という言葉を使いました。
では、根拠はどこかということですが、領解文にもありますが、御文章から引用します。

弥陀に救われたということは、真実信心を獲たということです。
真実信心とは、自力が廃って、弥陀をたのみ、疑いのなくなったことを言います。

蓮如上人のお言葉で言うと

諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり。(御文章5帖目15通)

ご指摘の通り、歎異鈔を引き合いに出すと、自力の心という言葉がない御文ですから、適切ではなかったと思います。教えて頂きありがとうございました。
このブログを読まれている方にも、少なからず誤解を与えることになり、お詫び申し上げます。

そして、このようにインターネットの時代こそ、自分で確認したり、尋ねたり出来るよい時代だと思います。

わたしもそう思います。
とかく忙しい現代社会ですから、なかなか信仰の話をしようにも、そういう場がお互い同行同士でももてない時代です。

報恩講に七昼夜参詣された、蓮如上人時代の御門徒のようにはなかなかできない人も多いと思います。

またお気づきの点がございましたら、また教えて頂きたく思います。
こちらも時間の都合で、1日1エントリーぐらいしか書けませんが、このブログを読まれている方で、安心についての問いがある方には、コメント欄にお尋ねいただければ、出来る精一杯でお答えしたいと思っておりますので、宜しくお願いします。