方便と真実の関係について3(元自称福徳会員さんのコメントより)
コメントを頂きました。
おたずねの件について、回答いたします。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080617/1213702732#c1213755192)
貴殿に確認です。方便に関する貴殿の主張は以下のとおりでよろしいでしょうか?間違いでしたら、できるだけ以下の文をベースにして書き換えてください。
法を説く立場のものは『「19願、20願は方便の願であり、助からない願である。全ての人は本当の意味で19願の善、20願の善(念仏)を行うことはできない。」と説いた上で、「19願の善、20願の善を行うことはできない自分だった」と知らされるところまで善をしなさい』と善を勧めるのは正しい。『「19願の善、20願の善(念仏)を行うことにより化土往生できる」と説くこと』は誤りである。
法を聞く立場のものは『「19願、20願は方便の願であり、助からない願である。全ての人は本当の意味で19願の善、20願の善(念仏)を行うことはできない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」と思わずに19願の善、20願の善をすることに勤めなければならない。『「19願の善、20願の善をすることにより化土往生できる」と思って善に勤めること』は誤りである。
まず、確認の件についてお答えする前に、方便と真実の関係について、ここで改めて説明をさせていただきます。
ここでいう方便とは、19願、20願、真実とは18願のことになります。
19願、20願は方便の願なんですが、方便と知ろうがするまいが、関係無いんです。問題はその人が、どうとりくむか、つまりは、体にかかってくると、本当の意味での求道となってくると、方便だから、ああ真実でないから、と言っていられません。
方便が方便になるのは真実があるからで、方便が方便にならないのは、真剣にとりくんでない人が言うことです。
真剣に弥陀の救いを求めてやろうとしたら、人間のやることは、19願、20願に放っておいてもなります。
方便だから、とこだわえるのは、そこまで、心がすすんでいない証拠です。
方便が方便になってないということです。方便が真実と同じくらいの重さがあるといわれるゆえんです。
方便が方便になっていないのに、ああでもない、こうでもない、というのは、それは、外から眺めているからで、横の線の軌道にのった人は、方便だから、真実だから、という区別をその時点ではしてませんから。真実に近づけるに、絶対必要なものを方便と言います。
そう言うことから言いますと、元自称福徳会員さんが理解しておられた(または、先輩や担当講師に当たる人から聞いたと思われる話し)は、逆になります。
方便をせずにいられなかった、んでなくて、これは方便、次に真実と方向がさかさまですので、この疑問は多くの人が持ってます。
親鸞聖人はというと、やはり、真実を知られなくても、取り組み方は、尋常ではありませんでした。
ふりかえって、三願転入をいわれましたが、同じく、人間は次元の差こそあれ、真実を最初にいつもしめされても、どうしても、方便をやってます。
顕正や、財施をしてみたり、教学にはげんでみたりしてます。
これは、何も、だまされたというばかりではなく、本人が、それで、納得してる部分が大きいのです。
なぜなら、そのほうがわかりやすいからです。
そういう意味では、比叡の山に入られた親鸞聖人と、かわりは、ありません。やってることは、大曼の難行に比べれば、お粗末ですが。
だまされた、のでなくて、○○が目標、と聞くと、わくわくする人間の根性しかないんです。
そういうことが本来したいんですから。
厳しい心の追及、誰も認めてくれない内部への働きかけ、は名誉欲が大きな山ほどある人間にとっては、非常に厳しいといえます。
あの人はすごい人だ、とだれしも言われたいので、「すごい」といわれるものに、一生懸命になります。
あいつよりは、おれが上、とどうしても思いたい心はないでしょうか?
そのためには、恰好で負かすしかありません、そういう根性をまるだしにして、やっているわけです。
しかし、真実が必ず知らされていますので、おれは、これでいいのかと、自問自答をすることになりますが、周囲の評価が高い人は、今の格好をくずすことはできず方便が方便になってない、まったく抜けた求道になっていますので、いつまでたっても、たすかりませんし、自力などわかりません。
繰り返しになりますが、体にかけて、真実を求めている人、求めたことがないひとには、方便と同じくらい真実が大事だと言うことはわかりません。救われてみなければ、あれが方便であったと言うことはできません。
そういう点で、元自称福徳会員さんの文章を元に書いてみますと
「法を説く立場のものは、まず18願を指し示し、ここが目的地であり、ここが真実の救いである。『「19願、20願は方便の願であり、必ず通らねばならないところです。全ての人は19願の善、20願の善(念仏)を行うことはできるかどうか、やってみなさい。」と説いた上で、「19願の善、20願の善を行うことはできない自分だった」と知らされたときが、救われたときです』と、できるかできないかやってみなさいと善を勧めるのは正しい。『「19願の善、20願の善(念仏)を行うことにより化土往生できる」と説くこと』は誤りである。
法を聞く立場のものは『「19願、20願は必ず通らねばならない願であるから、方便の願といわれる。方便であるから、真実ではない。全ての人は19願の善、20願の善(念仏)を行うことができたから助かるのではない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わずに、18願の救いを求めて、体にかけて法をもとめるままが、19願の善、20願の善になるのです。『「19願の善、20願の善をすることにより化土往生できる」と思って善に勤めること』は誤りである。また、これはどうせ方便だからなどと思って善に励むのも、体にかけて法をもとめていない証拠である。
こうなります。
もう一つについては、これが解決してからまたエントリーします。