安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「結局その焚き火とやらに当たるにはどうしたれ良いでしょう?信心決定したいと思い聞法しダラダラと何年もの長い歳月が流れました。(略)もう無理です。私には信心決定できません。」(みそみそさんのコメントより)

前回のエントリー常夏さんとみそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

以下、みそみそさんのコメントについてエントリーを書きます。

みそみそ 2018/02/10 21:10
結局その焚き火とやらに当たるにはどうしたれ良いでしょう?信心決定したいと思い聞法しダラダラと何年もの長い歳月が流れました。信心決定にこだわって現実に迫っている問題から背を向け続けていたた、いつの間にかその現実がもう目の前に迫ってきて居ました。

このままでは信心決定する前に現実に押しつぶされてしまいます。
もう無理です。私には信心決定できません。私にはもう阿弥陀様の本願は救いどころか呪いです。

記事やコメントを何度も読ませていただきましたが、結局のところ何一つ意味が分かりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180208/1518027162#c1518264627

前回、阿弥陀仏のお働きをたき火に例えましたが、どうしたらあたれるのかについては、あたるしかありません。これは例えなのでたき火でなくてもいいのですが、すでに電源がはいっているエアコンの前で「どうしたらエアコンにあたれますか」と聞いているようなものです。


みそみそさんのコメントの言葉でいえば、たき火と私のあいだにまだ何かがあるという前提で考えておられるのではないかと思います。そのような前提を設けて、自分でなんとかしようとあれこれするのを自力といわれます。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)

https://goo.gl/mfKeMP


みそみそさんは、これまで「わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ」してこられたと思います。その結果の現在は、「もう無理です。私には信心決定できません」でした。それは、「自力では」無理です。自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつらねば、信心とはなりません。


自力を捨てるとは、について親鸞聖人は以下のように書かれています。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P707)

https://goo.gl/QNCDHB


「みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」と言われています。こうしたら助かるというこころを捨て、また「自分は駄目だ」というこころを顧みないということです。コメントで「もう無理です。私には信心決定できません」と書かれているのは、自分で自分に決着をつけようとしている心です。これは卑下であって、また卑下慢といわれるものです。自分で自分をなんとかしようにも、何ともならないので苦しくなります。やがて、自分は駄目なものなのだと自分を縛りつけるようになり苦しいばかりで救いはありません。


だから「あしきこころをかへりみず」と言われています。それではどうすれば助かるのかと言えばひとすぢに「無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽」することだといわれています。


もう自分では信心決定できないと分かられたなら、自分で何とかしようという自力は捨てて、南無阿弥陀仏を聞いて下さい。南無阿弥陀仏はただ今救うと喚ばれるお働きですから、必ずただ今救われます。