安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

浄土真宗の入門書について考えてみる。(その1)

以前、浄土真宗の入門書を書いて見ませんかとお誘いを受けました。その時は、いつかは書いて見たいと返事はしたものの、手付かずのまま今日に至りました。
現在、全く浄土真宗と関係のない人に向けた本は書店にあるのですが、私の個人的な印象としては、それらの本を読んだ人が次に読む本がないというのが正直なところです。入門書を除くと、いきなり専門的な内容の本が殆どなのではないかというのが現状です。
そうはいっても、私に何かいいアイデアがあるわけでもないのですが、その中間を埋めるような本が1万年堂出版から出ている状況はなんともいえない状況でした。

そう思っていた頃、こんな本を読みました。

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

その前書きにあった内容が、なんとなく私が感じていたことを文字化されていたので紹介します。

だいたい東洋哲学者なんて、理屈や根拠をほとんど述べず結論だけをズバッと断定的に主張する連中ばかりである。だから、結局のところは「偉大な○○様がこんな素晴らしいことをおっしゃっています。どうですか? (あなたが現実の社会生活でそれを実践できるとは一ミリも思いませんが)そういう物の見方もあるんだと思うと、ふっと心が軽くなりませんか?」とお茶を濁した「人生訓」や「生きるヒント」みたいなものとしてしか彼らの哲学を紹介できない。で、そんなふうに書き進めてみると、やっぱりどうしてもどこかで見たような「生きるヒントがたくさん詰まったありがた〜い定番の入門書」になってしまう。
いや、それではダメ。せっかく書く機会を得たのだから、東洋哲学の「真髄」「本質」「核心」がガツンと伝わるような「史上最強の東洋哲学入門書」を目指して書くべきではないか?
では、どうすればいい。今までの東洋哲学入門書には何が足りなかったのだろうか? その答えを求め、菩提樹の下でひたすら黙想を続けたある日のこと、突如、悟りにも似た天啓のようなひらめきが脳を突き刺す。そうだ! 『バキ』分が足りなかったのだ。(史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち)

この本は、東洋哲学の入門書ですが、上記の文章の「東洋哲学(又は哲学)」を「浄土真宗の教え」と置き換えれば、そのまま浄土真宗の入門書の現状になります。

この本は、格闘漫画「バキ」の文脈から説明をしています。その意味で、とても分かりやすい本でした。また、浄土真宗の教えを知っていただく上で、とても多くの学びがあったと感じています。


そこで、「人生訓」でも「生きるヒント」でもない文脈で、浄土真宗の教えをそれまで聞いたことのない人に伝えるにはどうしたらよいのかを考えて見ると、現代人の苦しみはどこにあるのかということをベースにしなければならないと思います。


そこで、「現代人の苦しみ」とはなんでしょうか?浄土真宗は「救い」を説きます。その「救い」が「現代人の苦しみ」と無関係ならば、聞いて見ようという人はいないでしょう。
浄土真宗の教えを聞いている人によっては「それは後生の一大事だ!」という人もあります。もちろんそれはそうなのですが、浄土真宗と縁がなかった人にとっては、なかなか伝わりにくいところだと思います。
そこで、現在の私が感じる現代人の苦しみとは、一言で言えば「世界から拒絶されている感覚」または「世界に対する違和感」ではないかと思います。こういうといかにも大上段な言い方になってしまいますが、日常の感覚でいうと「居心地の悪さ」といったような感覚でしょうか。
例えば、会社、ご近所、学校、家庭といった環境にいて、その場所と私に「違和感」はないでしょうか?私が、以前親鸞会という新興宗教団体に入ったのは、その「違和感」によるものでした。しばらくは、居心地がよいと感じましたが、それは最初の「違和感」に対する誤魔化しであったことはあとで知らされました。

そんな世の中でも、「ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄)と親鸞聖人は言われています。
世界との違和感を解消し、居心地の悪かった世界が、そのまま南無阿弥陀仏であったと聞き受けるのが浄土真宗でいう救いです。

そういうことを柱に書いて行こうかと考えています。今後不定期にブログに文章を書いていきます。
ご意見のある方は、ぜひコメント欄にお願いします。