安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われたら、私の主体として阿頼耶識が浄土に往生するという考えは間違っているでしょうか。」(Peing-質問箱-に頂いた質問)

anjinmondou.hatenablog.jp
から続いての質問です。

Peing-質問箱-より

救われたら、私の主体として阿頼耶識が浄土に往生するという考えは間違っているでしょうか。 | Peing -質問箱-
これについて質問箱に以下のように書きました。

阿頼耶識そのものは、元は空であるという定義です。そのため主体としての阿頼耶識が浄土に往生するという言い方は浄土真宗ではあまりいいません。阿頼耶識を私の主体であるように思っておられるのでしたらそれは間違いということになります。
もう少し詳しくはまたブログに補足で書きます。

続きを書きます。

阿頼耶識について

阿頼耶識の意味について、広説 佛教語大辞典 縮刷版から引用します。

阿頼耶識 あらやしき
(略)一切現象の直接原因である種子をうけこみ、それを自らに貯蔵する精神的原理である。アーラヤとは貯蔵所の意味なので、何か実体的・場所的な解釈をひき起こしやすいが、その本性は空であるという。唯識説では個人存在の主体、さらには輪廻の主体であり、身体の中に存する微細なものであると考えられている。

ここに「主体」とあります。ただ、質問の趣旨からすると、「主体=実体的な何か」ということを想定されているのかと思い、前回の記事にもそのように書きました。

また、この唯識説は大乗仏教のなかの説の一つでありますが、親鸞聖人はその枠組み内で教えをあきらかにされているわけではないので、お尋ねのような言い方はあまりありません。
浄土真宗聖典註釈版や浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)に「阿頼耶識」という言葉は出てきません。


しかし、「主体=実体的な何か」という意味でなく、何が仏になるのかという時は阿頼耶識という言葉ではなく真宗では「仏性」「如来蔵」という言葉を使って説明される場合の方が多いです。

仏性について

浄土真宗辞典では、仏性について以下のように書かれています。

仏性 ぶっしょう
(略)仏になる可能性をいう。(略)
大乗仏教では一般に、一切衆生はすべてこの性を有しているとする。『涅槃経』に

究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P196)

と説かれている。
浄土真宗では、往生成仏は阿弥陀仏の本願力によるとするから、如来が衆生に与えた信心を仏性とする。『唯信鈔文意』には

この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P709)

とある。

唯信鈔文意の現代語訳

この如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性である

如来蔵について

同じく浄土真宗辞典より

如来蔵 にょらいぞう
(略)原義は如来の胎児、如来の母胎のどちらをも意味する。衆生の中にある如来となる可能性のこと。→ぶっしょう〔仏性〕

「仏性」「如来蔵」といっても、それは阿弥陀如来の本願力によるものというのが、浄土真宗での教えです。
「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。」とあるように、阿弥陀如来もありとあらゆる世界に充ち満ちておられないところはありません。私の心にもすでに本来は充ち満ちています。その本願力を聞いて疑い無い信心は、そのまま仏性であると唯信鈔文意には言われています。


お尋ねの阿頼耶識という言葉を、仏性、如来蔵として考えておられるのであればそう理解していいと思います。

補足:近代教学での言い方について

唯識と真宗というと近代教学のことを言われる方があります。
あまりご存知のない方のために、補足として紹介します。
有名なのは、曽我量深師、安田理深師の書かれたものです。

「私は一般的な真宗学の話をするのでも唯識学の話をするのでもない。自分は現在の自分の意識の事実の話をするのである。だから意識の体験を離れたる真宗学でもないし、宗教的認識と交渉なき唯識学でもない。つまり自分の意識の中に流るる真宗学を話し、自分の宗教的要求の反省なる唯識学の話をして居るのである」(曽我量深選集5ーP167)

「自覚の学としての真宗学に取って、極めて深い関わりを有っているのが唯識学である。真宗学をして自覚の教学たらしめるものは、大乗仏教といっても、諸法唯識という根本命題をかかげるところの瑜伽教学である。」(安田理深選集1-P527)

これについては、真宗を自分の身の上のこととして捉えるために用いられたものと私は理解しています。