安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「43 鎮西の四字尊号」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

43 鎮西の四字尊号

兎角届いた六字の御助けの外に、縋るこの手がなくてはならんのたのむ思いがなければ能信が立たぬのと。この機の世話のやまぬのは、全く六字の御助けが貰われてないひとのいうことである。


金が貧乏の懐中へ届いた外に、御礼報謝の場合ならいざしらず、一念の場に彼の思いのこの心地の、と詮索している馬鹿はあるまい。金さえあれば、心配もなくなり安堵も出来る。その出来た安堵というものが、せねばならぬとかかって安堵してのではない、安堵せんでも宜しいといわれても。此方から出す安堵なら、明日にも延ておかるるが、向こうより届いた金の力用で。出来る安堵の信相は、此方の勝手に差引ならぬ。これが他力廻向の金剛不壊の信相たる味わいである。

然るに受け心がなければ、受けた相が顕われぬのと思って御座る御方は。受けた相がないのでなくて、実際に受けた品がないのである。受け取った品を尋ねずに、受けた心地や味わいに苦心して御座るのは。全く六字の御手柄が獲得出来ていない、鎮西流の風下に立て御座る御病人である。


そこで少し難しいようではあるが、鎮西宗とこの真宗と、宗旨の違いめは何処から分かれて来たか、ということを御聞きくだされ。その分れめは、大体西方浄土の親様の御名前が違っておるので。鎮西宗は四字尊号と立て、浄土真宗は六字尊号と立てる。


この四字尊号と六字尊号の御話しは、丸で一宗を引っ提げてかからねばならぬ議論で。不学の我々では、とても充分の御話しは出来ないが。委しいことは学者の研究に譲っておいて、今は肝要の味わいだけを御話しして見せましょうが。あろう事かない事か、天にも地にも一仏さえましまさぬ如来様の、御名前が違うとは、いかにも怪訝いようではあるが。


先ず鎮西宗のいい分を聞いて見ると。
「西方浄土の御本尊は、阿弥陀仏という四字の御名前である。南無という二字は、衆生からつけるのじゃ。南無はたのむということ。金がいるで檀那様を頼む、病気で医者を頼む。用事もなくのものに、南無と頼む訳はない。子供がほしいで地蔵様に南無する、目が煩いで御不動様をたのむ。その時に南無地蔵大菩薩、南無不動明王と称えるので。南無薬師如来、南無大日如来、何れの神でも仏でも、頼みますぞが南無の二字。今は助かる縁のないこの身の後生の一大事、助けて下さるか尊方一仏なればこそ、助けたまへと此方から。頼んで出る時に、南無阿弥陀仏と申すので。南無の二字は衆生よりつけたもの、彼尊の実名は阿弥陀仏の四字である。然るに一向宗では、六字の名号じゃの、南無阿弥陀仏という仏じゃの、というておるは。大間違いの次第である」
と、鎮西宗では非難をするところであります。


そこで弥陀の御名前が、四字だか六字だか戸籍調べをして見ると、鎮西宗のいうのが御尤もじゃ。仏の戸籍は御経より外はない。先ず阿弥陀経を読んで見ると、仏長老舎利弗に告げたまはく、これより西方十万億仏土をすぎて世界がある。名けて極楽という、そこに仏が御座る。何という御名前か、阿弥陀と号すというてある。


しかも御経の中程に、弥陀の名義をお説きなされて。舎利弗、何が故に彼仏を阿弥陀と号する、彼仏は光明無量なるがゆゑに阿弥陀と名く、寿命無量なるが故に、阿弥陀と名く、と仰せられてあれば。
確かに鎮西のいう如く、尊方の実名は阿弥陀の三字で、仏は諸仏の通名であるから。阿弥陀仏の四字尊号でありに相違ない。南無阿弥陀仏と名けるという、六字の話しは御経の戸籍に載ってない。観経の下上品と下下品には、称南無阿弥陀仏と、六字になってあるけれども。彼は衆生の機に渡った名号であるから、南無の二字は悪人の心から出した、南無地蔵菩薩、南無大日如来の南無と同じものかも知れぬ。そうして見れば鎮西宗のいう如く、四字尊号の如来様であるというのが御経の文面に叶うておるようである。


然るに浄土真宗に於ては、弥陀の名号は六字にして、南無の二字は衆生から出すような、諸仏通途の南無ではない。彼尊の御名前に、南無の二字まで成就してあるのじゃ、と立る次第でありますが。しかしその南無の二字は、御経の戸籍には出てないものを。何処から持って来て六字にするか。サアここが真宗別途不共の法門でありまして、実に絶対他力の信仰の基づくところはここでありますから。何卒耳を澄して聞いて下さい。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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