安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、「そのまま」とはどういう事でしょうか?私は何もしなくてよいという事でしょうか?何もしなくてよいと聞くとどうしても無力というか、退嬰的な印象を受けます。」(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、「そのまま」とはどういう事でしょうか?私は何もしなくてよいという事でしょうか?何もしなくてよいと聞くとどうしても無力というか、退嬰的な印象を受けます。(頂いた質問)

阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いたのが信心だと、このブログでも書いてきました。また、罪を減らして救われるのではないのだから、そのままの救いですとも書きました。


「そのまま」と聞くとどういうことなのかと思われる方もあると思います。もう少し言葉を足して書きますと、「そのまま」とは「与えられたそのまま」「仰せのそのまま」ということです。


そのことを言われたものをいくつかありますが、今回のエントリーでは以下のご文を紹介します。

一つには信心淳(淳の字、音純なり、また厚朴なり。朴の字、音卜なり。薬の名なり。諄の字、至なり。誠懇の貌なり。上の字に同じ)からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。(教行信証信巻・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P215)
現代文:一つには、信心が淳く(淳の字は、あつく飾り気のないこと。諄の字は、至極ということであり、またまごころのこもった懇切なありさまであって、淳の字と同じである)なく、あるようなないような信であるからである。

http://goo.gl/ZuoSYR

親鸞聖人は、教行信証信巻に浄土論註を引文されています。そこで「三信(他力信心)」の体をあらわす「淳心」の「淳」の字について上記のように註釈をされています。「淳の字、音純なり、また厚朴なり。朴の字、音卜なり。」が、今回紹介したい箇所です。


「淳」は「厚朴」の意味だといわれています。「厚」は、浅くないという意味でいわれています。
源信僧都の往生要集には以下のように書かれています。

綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・上意)、「信心深からずして、存ぜるがごとく、亡ぜるがごときゆゑに。(浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P1125)

信心深からずが、「不淳」でありますから、「淳心」とは「深い」ということです。深心という意味で言われています。


そして「朴」については、修飾しない、淳朴という意味です。

じゅんぼく 【醇朴・淳朴・純朴】
(名形動)文ナリ
素直でかざりけのないこと。(スーパー大辞林より)

「厚」や「深」の言葉は、他力をあらわす言葉です。そして、他力とは私を助けるためのお働きのことで、南無阿弥陀仏の名号を指します。次の「朴」は、かざりけのないことということで、名号になに飾り付けをしないことをいいます。自分の行い、考えをまったく名号に付け加えないことをいわれています。それが「(名号を与えられた)そのまま」ということです。


このような理由により、他力は信心は「そのまま」ということです。何もしなくてよいというのは、本願がまだ成就していないのならば「退嬰的」ととらえられるかも知れません。しかし、すでに本願は成就して、南無阿弥陀仏のお働きは私に与えられているのですから、そこに私がいまさらなにか付け加える必要は、万に一つもありません。


南無阿弥陀仏と与えられたそのままを聞き入れたことを信心と言います。そういう意味での「そのまま」の救いです。