安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願を疑い無く聞いてからは、南無阿弥陀仏の静かな歓びが私を支配していますが、それが人生の打撃にたいしては無力なのも事実です。私には行き場所はないでしょうか」(ぱるるさんのコメントより)

ぱるる 2012/11/13 17:41
新たに質問させてください。

往生定まった安心よりも、日々の苦痛が大きく、崩れそうになります。
煩悩に変化がないのならば、苦しみの世界を耐え、自らの運命をあきらめて生きるしかないのでしょうか。
以前と違い本願を疑い無く聞いてからは、南無阿弥陀仏の静かな歓びが私を支配していますが、それが人生の打撃にたいしては無力なのも事実です。私には行き場所はないでしょうか

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121110/1352498522#c1352796111

ぱるるさんが、言われているのはご自分の環境についてのことか、自らの煩悩についてなのかよくわかりません。
ただ、どちらにしてもいろいろな苦しみによって追いつめられ、がんじがらめになっている心境になっておられるのではないかと思います。

おっしゃる通り南無阿弥陀仏を喜ぶ身に成ったからといって、煩悩は減ることもないですし、自分を取り巻く環境が急に変わるということはありません。しかし、だからといって自分中心の目線を持ったままでは何も変わりません。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃)

と言われるのも、本願力にあった上で言われることです。むなしく過ぎる人はないというのは、必ず浄土へ往生し仏のさとりを開くということです。
本願力にあうとは、そのように本願を建てて下さった本願の意を知るということです。もちろん、往生定まる身になるといっても、何かさとりを開いたわけではありませんが、本願のこころを知ることはできます。

そのように本願を建てて下さった仏様の目線から、自分を眺めてみますと、いろいろな苦しみや周りの環境に苦しんだり、流されたりしている自分がいます。そんな私を目当てに本願を建ててくださった阿弥陀仏の本願の恩徳を思って生きていかれたらいいと思います。

本願力にあうひとには、南無阿弥陀仏という場が与えられます。必ず往生する浄土もあります。常に呼びかけられる南無阿弥陀仏があります。自分の目の届くところが、世界の全てではないと目を開いてくださるのが南無阿弥陀仏です。そういう意味で、「行き場所はないのでしょうか?」とお尋ねされていますが、どこに行かなくても今の南無阿弥陀仏が、ぱるるさんの生きる場所です。