安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「慕帰絵詞」第五巻 第一段 宿善のことについて 資料

「慕帰絵詞」第五巻 第一段 宿善のこと について前のエントリーで林遊さんから紹介された資料をテキスト化しました。

鎌倉の唯善房と号せしは、中院少将具親朝臣の孫、禅念坊の真弟子なり。幼年のときは少将輔時猶子とし成人の後は亜相雅忠卿の子の儀たりき仁和寺相応院の守助僧正の門弟にて、大納言阿闍梨弘雅とてしばらく山卧道をそうたまひけるいにしへ法印と唯公とはかりなき法門相論のことありけり。


法印*1は「往生は宿善開発の機こそ善知識に値てきけば、即信心歓喜するゆへに報土得生すれ」と云々。
善公*2は、「十方衆生とちかひたまへば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願にあへば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。


ここに法印重ねて示すやう、「大無量寿経には、若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教ととかれたり。宿福深厚の機はすなはちよく此事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じかたしといふこと、あきらけし。


随て光明寺和尚この文を受けて、若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜と釈せらる。
経釈ともに歴然、いかてかこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとはのたまふや」と。


その時又、唯公「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生といふべしや、如何」と。
又、法印「宿善によて往生するともまふさばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善のゆへに、知識にあふゆへに、聞其名号 信心歓喜 乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し不退転にいたるとは相伝し侍れ。これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。
そののちはたがひに言説をやめけり。


伊勢入道行願とて五條大納言邦綱卿遺流なりしかば、真俗二諦につけ和漢両道にむけてもさる有識の仁といわれしが、後日此事を伝聞て彼相論の旨是非しけり。
伊勢の入道の詞に云 北殿*3の御法文は経釈をはなれず道理のさすところ言語絶し畢ぬ。又南殿*4の御義勢は入道法文なりとて、あさわらひけりと云々。
昔は大谷の一室に舅甥両方に居住せしにつきて、南北の号ありければ行願かくいひけるにこそ。

慕帰絵詞の上記部分にでてくる登場人物はどういう関係だったのかについて、

真宗史

真宗史

真宗史|本願寺出版社
P37より引用します。

唯善事件

覚信尼には、前夫日野広綱との間に覚恵と光玉という一男一女が、後夫の小野宮禅念との間に唯善という一男の子どもがあった。覚信尼はこの子女のうち覚恵に留守職を譲ったので、やがて異父弟の唯善との間に留守職をめぐる紛争が生じた。


その発端は正安三年(1301)に、聖人の外孫に当たる比叡山の僧源伊(聖人の息男即生房の娘の子)が大谷廟堂を相伝する資格があることを主張していたので、唯善はこれを抑えることを表向きの理由に、自己の大谷管理権を唱えたのである。すなわち唯善は実父禅念から大谷の土地の譲渡をうけ、その譲状を所持しているという言上書をしたため、後宇多院から大谷の管理権を認めた院宣をえようとしたのである。


このため覚恵は唯善の主張が虚偽であることを訴え、また長子覚如は東国に下り門徒の協力を要請するとともに大谷安堵の院宣を得るために資金の調達を行った。こうした父子の努力により、正安4年(1302)2月に後宇多院の院宣は覚恵側に下り、覚恵の留守職は東国門徒によって再確認されるところとなった。


朝廷権力に依存して失敗した唯善は、つづいて鎌倉幕府と交渉を試み、嘉元元年(1303)9月、ついに聖人の正統なる後継者が自分であることを確認させた。そうして徳治元年(1306)、折しも重病に陥っていた覚恵より廟堂の鍵の譲渡を求め、事実上大谷の管理者となるに至った。


翌年、覚恵は他界したので、この紛争はその子覚如によって引き継がれることとなった。覚如は大谷の恢復を図るために、常陸国鹿島の順性、下野国高田の顕智、三河国和田の信寂など有力門徒の協力のもとに伏見院の院宣を得て、廟堂管理者としての正当性を主張した。これに対して唯善は大谷の敷地の管理権は、本所の青蓮院の支配によるべき旨の院宣を得て対抗したので、ついに青蓮院の採決を仰ぐこととなった。


しかしながら採決は覚如の主張が認められ唯善は敗退したが、このとき堂内を破壊して関東に遁走した。時に延慶2年(1309)7月であり、唯善事件は8年の年月を経てようやく決着をみたのであった。

(略)
ところでこの頃、聖人没後半世紀近くを経ていたので、これらの門徒中には聖人の正意からはずれて知識帰命的異端に走ったり、土俗信仰の影響をうけて変質するものなどが現れ始めていた。覚如はこのことをよく承知しており、後に『改邪鈔』などを著して厳しく批判したが、このような門徒の同姓の中に在って留守職がその権限のもとに置かれていることは耐えがたいことでもあった。このため覚如は留守職に着任して以後はひたすらその地位の向上に努力した。


この政策において最も重きをおいたのは、大谷廟堂を寺院へと転回し諸国の門徒を統制することであった。
(略)
これらの覚如の遺徳は、従覚や高弟乗専によって讃仰されるところとなり、覚如の伝記巻物である『慕帰絵詞』(重文)や『最須敬重絵詞』が編纂されている。

以上が、慕帰絵詞第五巻 第一段の宿善のことに関する原文と、関係する説明資料です。

前のエントリーのコメント欄に書かれている内容については、また明日追記の形でまとめます。

*1:覚如

*2:唯善

*3:覚如

*4:唯善