安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私は、後生の一大事に驚きがたっていません・・・というか、それが、どういう状態になったことを指すのかも、よくわかりません・・・。(しかばねさんのコメントより)

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

しかばね 2013/04/15 21:41
(略)
高森先生は「後生の一大事に驚きがたったら、獲信の直前だから、赤飯を炊いていい。」と言っていました。
でも、私は、後生の一大事に驚きがたっていません・・・というか、
それが、どういう状態になったことを指すのかも、よくわかりません・・・。

「夜、眠れなくなる」「ごはんが食べれなくなる」「血の小便が出る」などと言われていましたが、
私には、そういったことは一切ありませんでした。

そもそも、赤飯を炊こうにも(今、自分は、獲信の直前だ。)という自覚自体が、私にはありませんでした。

このことに関して私は、『後生の一大事に“驚きがたつ人も中にはいる”』という捉え方をしているのですが、
その様な考え方でよろしいでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130414/1365888801#c1366029668

「後生の一大事に驚きがたつ」は、私も以前よく聞きました。その内容も、しかばねさんが言われるように「夜、眠れなくなる」「ごはんが食べられなくなる」等々と言った症状があらわれるというものでした。


そこでお訪ねの件ですが、「夜、眠れなくなるなどの症状になる人もある」という意味でいうならいいと思います。しかし、「それら諸症状=後生に驚きが立つ」と定義するのは間違いです。
なぜなら、「夜、眠れなくなるなどの症状」は、「後生に驚きがたった結果」であって、「後生に驚きがたつ」そのものを指した言葉ではないからです。したがって、「夜眠れなくなる症状」などを指して「獲信の直前」というのも間違いです。それを聞いた人は、「獲信」よりも「獲信の直前」にまずなろうと考えてしまうからです。その結果、「まだ夜眠れなくなってないから、自分はまだまだだ」とか、「夜眠れなくなるほど無常をつきつめて見よう」などよくわからない努力に走る人もあります。


では、「後生に驚きがたつ」とは、どういうことかと言いますと、「それぞれの縁によって法を聞こうという心が起きる」ことです。御文章の白骨の章では、人間世界の老少不定の姿がずっと書かれています。その無常のすがたを目の当たりにして、「いつまでも生きてはおられない」「浄土に生まれたい」と思う心のある人は、必ず法を聞こうとします。それを「後生に驚きがたつ」と言います。


御文章でいえば「宿善開発の機」ということになります。反対に、後生に驚きがたっていない人は、「無宿善の機」です。

さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。(御文章3帖目12通_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1158)

http://goo.gl/IA5om

ここで「無宿善の機」と言われているのは、長年門徒となってはいても「法を聞こう」「南無阿弥陀仏を聞こう」「信をえて浄土往生しよう」という心のない人の事です。「宿善開発の機(後生に驚きがたった人)」とは、「法を聞こう」「南無阿弥陀仏を聞こう」「信をえて浄土往生しよう」という心になった人のことです。


その心の強弱は人によりけりです。私個人のことでいえば、信仰のことも含めて「夜眠れなかった」ということはありません。とはいえ、「法を聞こう」という心が全くなかったら、たとえ親鸞会であろうとも入会しようという気持ちにはなりませんでした。


少なくとも、念仏とは何だろう、浄土真宗とはどんな教えだろうと知りたいと思ったり、自分自身の問題としてなんとか浄土往生したいと思う心になり「法を聞こう」と思った人は「後生に驚きが立った人」です。あとは、法を聞けばよいのであって、「驚き方を深める」のは方向違いです。