安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

煩悩がなくなるといった場合は「仏智疑惑」がなくなる(元会員Xさんのコメント)

元会員Xさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。返答が遅くなり申し訳ございませんでした。

>無明の酔もようよう少しずつ好まずして

上記の親鸞聖人のお言葉は、
煩悩が完全に「消える」とまでは言っていませんが
弥陀の本願を聞いていく過程で
「減っていく」と解釈ができると思いますが如何でしょうか?

また、『執持抄』には
弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。
これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。
かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。
さればこの光明の縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

と書かれています。
さればこの光明の縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき
の部分で「無明の昏闇」は煩悩のことだと前後関係から読み取れると思いますが、
「無明の昏闇」がうすくなるとはどういうことでしょうか?

ご回答お願いします。
(元会員x さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090611/1244720176#c1244730632

回答します。
「減っていく」というのは、元々の煩悩そのものは減っていなくても、以前に比べて、阿弥陀仏のことを念ずることが増えたり、念仏を称えるようになったとすれば、三業にあらわれる三毒の煩悩は減ったといえないことはありません。ただ、それは煩悩そのものが減ったと言うことではありません。

もう一つ、執持鈔のお言葉ですが「無明の昏闇」とは、煩悩と読んだときは、末灯鈔のお言葉「無明の酔もようよう少しずつ好まずして」と同じ意味になると思います。
貪欲、瞋恚、愚痴ばかりで一日過ごしていた人が、仏法を聞き求めるようになったということは、心の中をみれば、三毒の中に「仏法」が心にあるので、「うすくなりて」というのは結果的にいえます。
ただこれは、阿弥陀仏の光明の縁により、起こされた心で、煩悩以外にない者の煩悩が減った結果ではありません。表面の三業にあらわれるものが変化して、煩悩がへったのかしらと思うような状況でも、煩悩そのものはかわりません。

「うすくなる」とは、仏法を聞こうという心がでてくるということです。

「無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき」
の「宿善のため萌すとき」が、「名号をきくなり」と意味が同じという説明をするのならば、無明の闇、仏智疑惑の煩悩がなくなるのであって、貪欲・瞋恚・愚痴・疑・慢・悪見の六大煩悩がなくなるのではありません。