安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏の信心について、弥陀から信心を衆生が受ける時には信じる心が先なのか?それとも念仏を聞くのが先なのかどちらなのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)


念仏の信心について、弥陀から信心を衆生が受ける時には信じる心が先なのか? | Peing -質問箱-

○質問
念仏の信心について、弥陀から信心を衆生が受ける時には信じる心が先なのか?
(歎異抄第一章より弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。)

それとも念仏を聞くのが先なのかどちらなのでしょうか?
(仏説無量寿経下巻(現代語訳)
 無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。
 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを誹るものだけは除かれる)
自分の体験的には念仏を聞く方が先なような気がするのですが、どう解釈すればいいでしょうか?
宜しくお願いします。

Peing-質問箱-に回答が現在書けない状態になっているので、X上に以下のように書きました。

文字制限があるので、書けなかったものも含めて以下になります。

信心は、「信心を受け取る」というより、聞名(その名号を聞く」によって起きるものです。
その信心から口に現れるのが称名念仏という形になっています。
実感として、それまで念仏を申してこられたという事からすると、念仏を聞くと名号を聞くといっても厳密に分けられるものではないので、そのように受け取られるのは自然かと思います。

信心は、質問文にある、本願成就文にあるように「聞其名号信心歓喜」ですから、「聞其名号」によって起こされるものです。
「其名号」とは、十七願において諸仏が讃嘆している名号のことなので、その名号を聞いたところで信心歓喜が成り立つということになります。

「其の名号」とは、具体的にはお釈迦さまの説かれた教えの言葉として届けられていますし、縮めていえば南無阿弥陀仏の六字名号となっています。それを聞いて疑いない状態を信心といいます。

その意味で、質問文にある歎異抄第1条については

一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(浄土真宗聖典註釈版P831)

「弥陀の誓願不思議に助けられる」と聞いて疑いない状態となり、往生させて頂けるのだと信受して、その上で念仏申す身になると読みます。

「往生をとぐるなり」という信心が置きてから念仏申すと読むと、信心が先となりますが、その信心は何によって起きるのかといえば、「弥陀の誓願不思議にたすけられる」という名号を聞いたことによります。

次に、「念仏を聞く」ということですが、「私の称名を聞いたこと」と「名号を聞く」とは形の上では同じでも、本来指す言葉の意味が違うので、少し言葉を加えて書きます。

称名念仏は、親鸞聖人も「大行」といわれて、如来の行が私の口から出てくださる相だといわれます。
「念仏」を聞くとだけ聞くと、「それは自力念仏だ」とか「口に称えただけだ」というものを想像する人も多いので、信心については「聞其名号」といわれます。

ただ、名号を私が聞いて疑いない信心と、その信心が相続する相が口に現れる称名となって現れます。こう書くと時間的にに別物のように思います。ただ、これは私の受け取られる相からいわれたものです。

阿弥陀仏の方からいえば、この三つは別々のものではありません。

真宗で聞法をされてこられれば、念仏往生の願と聞いて念仏されてこられることが多いのではないかと思います。まず聞法し、念仏申されている中で、聞いて疑いない身になられたということならば実感としては、念仏を聞くのが先ということになるかと思います。