安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「浄土三部経が創作ならば、法蔵菩薩も阿弥陀如来も架空の創作であるということになります。」「これらの疑問は疑いになるのでしょうか?」(ぱるるさんのコメントより)

ぱるる 2012/11/10 03:19
質問があります。
浄土三部経が創作だという意見を聞きました。
浄土三部経が創作ならば、法蔵菩薩も阿弥陀如来も架空の創作であるということになります。
学術的にもこの考えを後押しする論証があるとお聞きしております。
安心問答では、「南無阿弥陀仏」が証拠であるというような事をおっしゃっていたと思うのですが、この辺はどのように考えていらっしゃるのでしょうか。
また、これらの疑問は疑いになるのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121108/1352365311#c1352485173

お経が創作というのは、ないものを書かれているという意味だと思います。
これまでの文献学や歴史の研究によって、どのお経がいつごろ成立したかは、ある程度わかるものもあれば、ハッキリしないものもあります。ぱるるさんが、創作というのを聞いたというのは、経典の書かれた年代などからいわれているものだと思います。しかし、文字化されたお経というのは、どこまで突き詰めても、「お釈迦さまが説かれたことを録音したものと同じ」という証明をすることはできません。

お経というのは、言葉を超えた仏の智慧の世界から言葉となって私に届けられたものというようにいわれます。お経に書かれたあることでしか私たちは字で読むことはできませんが、言葉だけによってその言わんとされる内容を忘れてはならないと、教行信証にも大智度論を引いて教えられています。

 『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P414)

(現代文)『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。

http://goo.gl/7a2J1

言葉に依らねば、私たちはお釈迦さまの説かれたことも、阿弥陀仏の本願を知ることもできません。しかし、経典に説かれた言葉は真実という月を私に知らせようと、それを示す指であって、月そのものではないと上記の文の続きに書かれています。

したがって、言葉をどれだけ分析したからといって、その指し示そうとされた真実に目がむかなければ、何を教えられたのがお釈迦さまなのか、親鸞聖人なのかわかりません。

しかし、お訪ねにあったように「南無阿弥陀仏が証拠」というのは、真実という月が、法蔵菩薩の願となり、その願が成就して南無阿弥陀仏となって私の口から出てくださいますと教えられるのが、お釈迦さま教えであり、月を指さす指にあたります。

ですから、お経のご文で仏願の生起本末をどれだけ解析しても、私の口を通して出て出される南無阿弥陀仏が出ているということに何も驚かない人は、指を見て月を見ない人と同じです。南無阿弥陀仏を通して、これがお釈迦さまが説こうとされた真実のお働きと仰ぐからこそ、南無阿弥陀仏が証拠と言っています。

それは、南無阿弥陀仏は私たちが日常使う言葉ではない、阿弥陀如来が直接私に呼びかけられる仰せだからです。

お訪ねになったことが、疑いになるかということについては、疑いにもなりますが、歴史的な興味という面もあると思います。歴史的な文献学的に証明されなければ、心配だと思われるよりも、私の口からなぜ南無阿弥陀仏が出るのだろういうことを通して阿弥陀如来の大悲を知っていただきたいと思います。