安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分の信心の誤りを全て克服したから獲信できたのでしょうか?(名無しさんのコメントより)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

続けて質問させていただきます。この安心問答でもその他のブログでも、質問者に対し「その信心はおかしい、それは誤った考えだ」など信心に関するアドバイスをされていますが、信心決定された方々自身は、自分の信心の誤りを全て克服したから獲信できたのでしょうか。それとも獲信してから過去を振り返って、「あの頃の自分は間違った信心や考えをしていたんだな」と思い知ったということなのでしょうか。
信心の沙汰が大事だと言われるので、あれこれ考えていると、ふとそんな疑問が浮かびました。(名無しさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111103/1320305011#c1320391429

「自分の信心の誤りを全て克服したから獲信できた」のではありません。名無しさんのコメントでいえば「あの頃の自分は間違った信心や考え方をしていたんだな」というところから、このブログもいろいろと書いております。

しかし、個人的に間違っていたことだけを元として書いているわけではありません。なぜなら、自分自身が「こういうものが信心だろう」とか「こうなったのが信心だろう」と思っていたことは、その人その人によって違います。
信心とは、こうであるとか、自力の信心はこうであるというのは、あくまでお釈迦様はじめ、親鸞聖人が教えられた教えが元となります。

信心について、親鸞聖人が教えられたお言葉はたくさんありますが、このブログでもよく紹介するのは以下のお言葉です。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P677

「聞」とは、本願を聞いて疑い無いことです。「信心」は、「如来の御ちかひ(本願)」を聞いて疑いないことです。
以前は、どう聞いたらいいのかとか、どうすれば阿弥陀仏の喚び声が聞こえるのだろうかと考えていました。また、「聞即信」という言葉も、「聞いた」その時「信心決定の身になる」と考えていました。そのためその「聞いた」とは、どうすれば「聞いた」になるのかと考えました。

しかし、上記に書いた「『聞いた』その時『信心決定の身になる』」は間違いです。「聞いていることを信心」「信心とは聞いていること」と言われているのが、「聞即信」です。聞いたことと、信心は別のことではありません。
それを「きくといふは、信心をあらはす御のりなり。」と言われました。「聞」とは、信心をあらわす言葉です。
「聞いた」とは、本願を聞いて疑い無いことであり、「信心」も本願を聞いて疑い無いことです。

「真剣に聞いた」のも「ぼーっと居眠り半分で聞いた」のも信心ではありません。「聞いている」のが信心です。その聞くとは、本願を聞いて疑い無いことを信心といいます。

ですから、その誤りを克服して本願を聞いたのでもありません。阿弥陀仏の仰せを聞いて疑い無いだけです。どうしてそうなったかというお尋ねがあっても、それは阿弥陀仏の仰せが「ただ今救う」「そのまま救う」であるからであって、私がそれをどうこうして聞いたのではありません。

仮に、誤りを克服して聞いたとなれば、ただ今聞くことはできません。なぜなら、先に聞き誤りや考え違いを正してからでないと聞けなくなってしまうからです。
いろいろな考えや、間違った信心を持っている人にたいして、「ただ今救う」と呼びかけられているのが南無阿弥陀仏です。手元にある考えや、自力の信心にいつまでも向かうのではなく、本願力に向いて、ただ今救うを、ただ今聞いて救われて下さい。