安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会高森顕徹会長が「雑行をすすめていた」ことを認めるまでの教義の変化を振り返る。

5月8日の座談会で、19願は雑行を勧めていると高森顕徹会長(浄土真宗親鸞会)が解説しました。
高森会長の雑行の勧め: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~でも取り上げられていました。
高森会長は、ネット上のいろいろな指摘に対して、ここ数年間ひたすら内輪向けに話をしてきました。
場当たり的な教義の変更をした結果行き詰まり、「親鸞会が勧めてきたことは、雑行の勧めだった」と自ら告白しました。

親鸞会の特徴は、批判を受けるたびにその「教義」を変えることです。
以下、親鸞会教義の変遷(善の関係)思いつくまま書いてみます。

五重の義中心のころ 宿善まかせだから、宿善を厚くしなければならない。それには、聴聞、おつとめ、六度万行。とにかく善をせよ。
三願転入中心のころ 善をすると信仰が進む。ただし、信仰が進んだら救われるのではない。
同上 雑行を捨てよとは、善を捨てよではない。だから善をせよ。
同上 雑行とは自力の心でやる諸善だから、雑行を捨てよとは、善をするなではない。

以下は、「八万四千の法文・・」を中心に解説した、ここ1年くらいのもの

諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。(諸行往生は本願にあらずより)

人間の善は、仏眼からご覧になれば毒の雑じった他人だましだが、行う善はあくまでも善であって、悪ではない。やれば必ず「善果」が現れる。
�雑毒の善といわれるから�と、善に消極的であったり、悪にほこれば、不幸や災難の悪果ばかりがやってきて、この世から地獄になるのは当然である。

「善因善果 悪因悪果 自因自果」

の因果の道理を深信して、光に向かうのが真の親鸞学徒である。
聞き誤ってはならぬ「雑毒の善」|親鸞会

今回:

19願の善も、ただよいことしたらよい結果がくるというものではない、それは阿弥陀仏の浄土へ生まれるためですから、三願ともに欲生我国とある。
(略)
19願から諸善万行をやろうという雑行が出てくる。そんな心がない人間に振り捨てよ、なげすてよといわれても、裸で歩いているものにものを落としたという人がない。
投げ捨てよ、振り捨てよと蓮如上人言われているのは、捨てよ、振り捨てよ誰がいうのか。
持たないものに捨てよといっても、ちんぷんかんぷん。
雑行を捨てて、これは方便です。19願からしか雑行はでてこない。19願で、雑行をさせ、自力の心を起こさせ、こしらえられる。
持たないものに、阿弥陀仏が、19願要門でこしらえさせてくださる。そして縦の線で、自力の心がすたる。(会長「19願も、20願も欲生我国とあるから皆18願に向かっている」(5月8日二千畳座談会参加者より頂いた情報より) - 安心問答(浄土真宗の信心について)より)

これだけ短期間に教義がかわる団体も珍しいです。他には無いのではないでしょうか。どんな宗教団体も、その団体なりに「教義」があり、教義を守って活動しています。

批判されるたびに、教義が変わるのは、根拠が御聖教にないからです。
今回だけでなく、最近の会長の話の場では、アシスタントが「それは初めて聞きました」という場面が多くあります。それ一つとっても、今までの言わなかったことを突然言い始めたと分かります。

前回と違う話をしている自覚があるためか、高森会長は今回も話の最後にこう話をしたました。

真仮は、真実に出ないとわからない。(5月8日二千畳座談会より)

真実は、真実に出ないと(獲信しないと)分からないと、これが最後の会員へ対しての予防線です。こういう事で「どれだけ質問をしようが、疑問を持とうが、真実に出ない人には分からないのだ」と会員に思わせて終わりました。

しかし、上記の善の勧めの変化をみれば、親鸞聖人の教えを知っている、知っていないに関係なく、教義に一貫性がないことがわかります。

親鸞会会員で、このエントリーを読まれた方に、あらためて言います。
あなたが、親鸞会で話を聞いたことに「おかしいな」とか「前回と違うのではないか」と思ったことは、あなたの聞き方が悪いのではありません。会長の話が「首尾一貫していない」「前回と違うことを言っている」からで、ある意味「正確に聞いている」からです。

御聖教まで出さなくても、過去一年間の顕正新聞、顕真を改めてよく読まれたらわかることです。
会長の話をできるだけ正確に伝えるための機関誌ですから、真剣に読めば教義の変化がよく分かると思います。