安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ド真剣に聞け」と聞いてきたけれど(頂いた質問)

ド真剣に聞けと、親鸞会ではよく聞いてきました。しかし、山も山さんは、あまり「ド真剣に聞け」とブログにも書かれていないのはなぜでしょうか?(頂いた質問)

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり(浄土和讃31・註釈版聖典P561)

このご和讃を出して、親鸞会では、どんな困難も乗り越えて、親鸞会主催の法話に参加せよと言っています。しかし、毎月3回、以前は毎週全国で行われる会長の法話に参加するというのは大変なことです。経済的にも、体力的にも相当なやりくりをしないと不可能なことです。
そのため、法話参詣という手段が目的化しているのが親鸞会会員の方に共通した気持ちです。
ご和讃で言えば「みてらん火をもすぎゆき」る為に、生きていると言うことになります。別の言葉で言えば、会長の法話に参詣するための努力をするのが、いわゆる「人生の目的」になっているのです。
「仏の御名をきく」ことも「ながく不退にかなふ」ことも、言葉はあっても現実的な話ではなくなってしまいます。

親鸞会では、「ド真剣に聞け」という言葉が、事実上「法話に参詣するための努力をド真剣にしなさい」という意味になっています。また、法話の場で「ド真剣に聞け」となれば、集中力を一段と高めなさいという意味になります。
「みてらん火をもすぎゆき」る集中力を発揮したら、救われると言うことではありません。そうなると、大前提として「みてらん火をもすぎゆき」る努力ができる人でなければ救われないと言うことになってしまいます。

仏の御名を聞くことが大事です。努力をしないと救われないのではありません。火の中を突破する覚悟が必要なのでもありません。
ただ、南無阿弥陀仏と仰られる、必ず救うから私をたのめと言われる阿弥陀仏の願いをただ今聞くのです。

その願いから逃げる心があれば、それは聞いていないのです。聞けといわれるのは、逃げるなと言うことです。疑いがあればまた聞けませんから、聞けと言われるのは、疑いを捨てよと言われているのです。
ただ今救われて下さいとは、ただ今聞きなさいと言うことです。大千世界のどこへ逃げても逃げ場はどこにもありません。また、どれだけ疑ったところで、疑いを持ったままでは報土には行けません。
ただ今聞いて、ただ今救われて下さいというのが、親鸞聖人がご和讃で仰っていることだと思います。