安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われてから疑い晴れるという言い方について(ぺんぺん草さんのコメント)

ぺんぺん草さんよりコメントを、頂きました。有り難うございました。

改めて、引用された部分を読んでみますと、
救われてから疑い晴れるかのように読めます。

もし、そのように考えているのであれば、
 往生一定の身に救われた
→往生一定とハッキリする
→往生一定の自己が法の深信だ
となるのも無理はない気がします。

しかし、これだと教行信証で言う、信と証とが逆だと思います。
信が因で、証が果であるのが聖人の教えのはずです。

こう考えているのですが、正しいでしょうか?(ぺんぺん草さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090718/1247904812#c1248414009

引用した部分というのは、以下の部分です。

弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。
(歎異抄をひらく・159ページ)

回答します。
この文章だけでは、救われてから、疑いが晴れるというように書いてあるとはいえません。
そもそも救われたというのは、別の言葉で言えば、真実信心を獲得したことであり、二種深信が立ったと言うことですから、文章で書いて前後はできても、因果関係にはなりません。

コメントでぺんぺん草さんが言われるように

 往生一定の身に救われた
→往生一定とハッキリする
→往生一定の自己が法の深信だ(ぺんぺん草さんのコメント)

ということはありません。