安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力探しと宿善まかせ(メールで頂いた質問)

今救われよう、南無阿弥陀仏を頂こうと思って(力んでいるような感じですが)、どうして今救われないのだろうと思ってみるのですが、正直、何も感じられないような感じです。自惚れているからなのでしょうか?(メールで頂いた質問)

回答します。
何も感じられないと言うことは、別に変わったことでもありません。
自力の心というものは、わかるときにはわかるというものなのです。
仏法を聞こうという心でも同じ事が言えると思いますが、どれほど人から勧められても仏法を聞こうと思わないときは、思えといわれても思えません。しかし、いざ仏法を聞こうという心が起きるときは、どういうわけかそのような心になるものなのです。
すべて阿弥陀仏の光明のはたらきによるものなのですが、自力の心は起こさねばならないというものではなく、起きるときはおきるものです。

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし。(御文章4帖目15通・大阪建立)

蓮如上人のお言葉ですが、宿善まかせといわれます。皆々信心決定あれかしと朝夕思い続けておられた蓮如上人ですが、ここでいわれる宿善まかせとは、ただ今救われようという聞法心です。それは、自覚としてはいろいろあるでしょうが、別の言葉でいえば、自力が問題となるかどうかということです。
宿善とは、自力の心が問題となるということ、諸々の雑行が問題となることです。
自力がすたらねば救われないといっても、自力を探せば自力はみつかりません。影を追っても影には追いつけないようなものです。
宿善まかせときいて、善をもとめる人と考え方は同じで、善を積むのが、自力を探すに変わっただけです。本質的には同じ事をいっています。
それは自惚れているということではありません。
阿弥陀仏にむくかむかないかであり、まず自力を探そうというのは、阿弥陀仏より手段にむいているのです。
ただ今救う阿弥陀仏に向かって下さい。