安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

平生も臨終ですから、平生の阿弥陀仏の救いが大事です(maryさんのコメント)

maryさんより、前回のエントリーについてコメントを頂きました。(歎異抄9章の「死なんずるやらんと心細く」の意味について(maryさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

 「心細い」心の説明、大変よく分かりました。ありがとうございました。
結局、信心決定した人が死に向かったとき、真っ暗になる心は出なくなる、という理解でよいでしょうか?
どうしても、そこが確認したいので・・・よろしくお願いします。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090312/1236810897#c1236812196

「真っ暗になる心」というのが、「どこへいくか分からない心」「地獄にでも堕ちるのではないだろうか」という意味でなら、そういう心は出ません。
出なくなると言っても、臨終は死ぬそのときのことではありません。

呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ。(教行信証)

と親鸞聖人がいわれているように、吸う息、吐く息の間が臨終であり、来生なのです。
現在救われている心の様子と、臨終の心の様子は全く変わりません。吸う息、吐く息が臨終なのですから。
臨終の心境といって、今ではない死ぬときの心境はどれだけ心配したとしても、寝ている間に突然死したら、臨終の「心境」ということは問題にしようがありません。

あくまでも、臨終ではなく、平生に救われていることが大事なのです。だから、いつ無常が来るかもしれませんし、一度この人間としての一生を終えれば、次また人間に生まれて仏法を聞く機会というのは万劫にもないことなのです。現在ただ今阿弥陀仏に救われたと言うことがなければ、阿弥陀仏も助ける縁はありません。現在ただ今救われなければならないという、無常を念じて、後悔をすることがあってはならないと親鸞聖人はいわれています。

またそのことを、蓮如上人は、御文章にこういわれています。

聖人の仰には、『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚に住す、正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし』といえり。(御文章1帖目4通・自問自答)

親鸞聖人の仰せには、「臨終に救われるというのは諸行往生のことである。阿弥陀仏に救われた真実信心を獲得したひとは、救われたそのときに正定聚の数に入るのだ、正しく仏になるに定まった人になるのだから、必ず弥陀の浄土に往くことができる。だから、臨終をまつ必要もないし、阿弥陀仏が臨終に迎えに来ることをあて力にすることはない」といわれた。
臨終にこの心がどうなるか?とか、臨終に真っ暗な心が出てきたら?という心配をする必要は、ありません。平生に正定聚の数に入り、必ず弥陀の浄土に往生できます。

それには、ただ今弥陀に救われていなければなりません。
また、かならず阿弥陀仏に救われる事があります。