安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

欲や怒りの罪が思えるか思えないかは弥陀の救いの問題ではありません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

質問させていただきたいのですが・・。
「心で恐ろしい悪を作っているから後生は地獄だと思う」といわれる方が、まわりにたくさんおられます。
私は仏法の聞き始めからずっと罪悪感が薄くて「地獄に行く」とは思っていません。(それでも人間であったとしてもやはり苦しいので流転輪廻はしたくないと思います。)
心で作っている罪悪がわかるようにならないと(助けていただく後生の一大事という大苦悩が問題になってこないと)やはり信心決定は難しいのでしょうか?
(maryさんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090315/1237071598#c1237134454

回答いたします。まわりの人がいわれる「恐ろしい悪」というのは、欲や怒りやねたみそねみの心で思う罪悪だと思います。そうだとすれば、「欲や怒りの煩悩で造る罪悪がわかるようにならないと信心決定は難しい」ということはありません。

これはmaryさんが次のコメントに書かれていますが

今でも「すれ違う女の人を一瞬で値踏みして火花を散らす」心までは自分にはないと思います。
(私はすぐ愚痴になってしまうのですが)愚痴が悪口になってはまずいと思いますが、愚痴が汚い、はきだめのような心、とまでは思いません。
(maryさんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090315/1237071598#c1237210312

これは個人差があるので、「そうならねば救われない」ということではありません。
私は男性ですが、すべての女性が「すれ違う女の人を一瞬で値踏みして火花を散らす」ようなことを自覚的にやっているとは考えておりません。
別段そのことが、レベルが高い低いということにはなりませんし、阿弥陀仏の本願の救いの相手は「十方衆生」ですから、レベルということは阿弥陀仏の本願にはないのです。
「どんなものでも助ける」ということは、「罪悪で苦しんでいる人も」「罪悪で苦しんでいない人も」ということです。「罪悪で苦しんでいる人だけ助ける」本願ではありません。
御文章には蓮如上人はいわれています。

先ず、当流の安心の趣は、あながちにわが心の悪きをも、また妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず。ただ商をもし、奉公をもせよ、猟漁をもせよ、「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬる我等如きのいたずらものを、助けんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞ」と深く信じて、一心にふたごころなく弥陀一仏の悲願にすがりて、「助けましませ」と思うこころの一念の信まことなれば、必ず如来の御たすけにあずかるものなり。(御文章1帖目3通・猟漁)

浄土真宗の信心とは、自分の心の悪いことや、いろいろな欲や怒りなどの煩悩で造る悪い心が起きるのを止めよとはいわないのである。どんな仕事でもしなさい、「そんな浅ましい罪悪に苦しんでいる我々を、助ける阿弥陀如来の本願であると、露チリの疑いもなく信じて、一心なる一念の信心が真実なら必ず阿弥陀如来の救いに預かるのだといわれています。

阿弥陀如来の本願からいえば、「思える」も「思えない」も煩悩具足の凡夫という点ではなにもかわりません。「罪悪が思えるような凡夫」だから助けるとはいわれていません。
蓮如上人が言われているように「一心にふたごごろなく」「一念の信まこと」とならねば、救われないのです。
問題にしなければならないのは、「罪が思えるか思えないか」ではないのです。

罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。(御一代記聞書)

と蓮如上人もいわれています。「思えるか思えないか」は、「罪あるなしの沙汰」です。
流転輪廻を繰り返す元になっているのは、阿弥陀仏の本願を疑う、疑情一つです。
その疑情一つ晴れるかどうかが、信心を取りたるか取らざるかの沙汰なのです。

本当に現在ただ今弥陀の救いを問題にするならば、「罪が思えるか思えないか」で悩む必要はありません。「信心を取りたるか取らざるか」で悩んで頂きたいと思います。

救われるのは、「罪が思えた」からではありません。ただ今のことです。