安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

歎異抄9章の「死なんずるやらんと心細く」の意味について(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

信心決定した人が死に向かったとき、真っ暗になる心は出なくなるのでしょうか?
また、歎異抄に「ちょっと病気にでもなると、死ぬのではなかろうかと心細くなる」と書かれてあります。
心細いというと、不安な時(知らないところに一人で行くときとか)や心配な時(精密検査の結果を聞く時)など、未来起きることを心配する気持と思いますが、未来は往生一定なのに何がどのように心細いのでしょうか?
具体的に教えていただければ、と思います。(どうしてもそこがひっかかります。)
よろしくお願いします。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090311/1236723319#c1236778921

お尋ねの歎異抄の部分とは、以下の部分だと思います。

また浄土へいそぎ参りたき心のなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細くおぼゆることも、煩悩の所為なり。(歎異抄9章)

阿弥陀仏に救われても、阿弥陀仏の極楽浄土へ急いで行きたいという心もなく、それどころか病気にでもなれば、死ぬのではないかと心細く思うことも、煩悩のなせるわざであると言われているところです。
未来は浄土往生間違いない身ならなば、心細い気持ちはないのではないかというお尋ねです。

回答しますと、ここでいう「心細い」というのは、頼るものがなく不安であるというような意味ではありません。何となく寂しく感じられるとか、ものさびしい気持ちを言います。

未来に対する「どこへ行くか全く分からない」ということではありません。何が起きるか全く予測できないから死ぬのが怖いということでもありません。
弥陀の浄土に生まれられるということは、往生一定の身であっても、未だに一度も生まれたことのないところに行くのですから、そこへ生まれられるという心もある一方、長い間いたこの生死の世界を離れるもの寂しい気持ちも同時におきるのです。

久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。(同上)

果てしない過去から現在まで流転をしてきたこの生死の世界は古里のように懐かしく捨てがたいのに、まだ生まれたことのない弥陀の浄土は恋しく思えないのは、本当に煩悩以外にない私だからだと言われているのは、そのことです。

嫁ぐときに実家を離れる花嫁さんが感じる、もの寂しい気持ちに似ているかもしれません。また、故郷を離れて新しい人生を始めようとする人が、いよいよ故郷を離れていくときに遠ざかる故郷を車窓から眺めるときのわびしい気持ちとでもいったら分かられるでしょうか。縁が離れるときに感じるわびしい気持ちなのです。

名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。(同上)

名残惜しく思う気持ちもあるけれど、この娑婆との縁がつき、肉体の命がおわれば、弥陀の浄土へ行くのだと続けていわれています。
心細いというのは、上記のお言葉でいえば「名残惜しく思えど」にあたります。

極楽浄土に生まれられるのだから、いろいろな苦しみの多い娑婆世界に名残惜しい気持ちが起きるのだろうか?と思われる方もあるでしょう。
だからこそ、度し難いのが人間の実態であり、そんな心しかない者ですから、「ただ今救う」という阿弥陀仏の本願から逃げよう、遠ざかろうとして、迷い続けるのです。

阿弥陀仏が助けようとしていないのではありません。私が逃げているのが実態なのです。
同じ歎異抄9章の中にもありますが、

しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、我らがためなりけり(同上)

阿弥陀仏は、私たちをそういう煩悩具足の凡夫と見抜いておられますから、阿弥陀仏の本願はそういう私たちのために建てられた願なのです。
かならず阿弥陀仏の本願によって救われる時があります。