安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「助けたいの親様と、助かりたいの私とでありながら、助けて頂くことに安心の出来ぬのは、どこに欠点があるのでしょうか」(真宗異安心批判・藤澤教聲著/P89-91より紹介)

以前紹介した、真宗異安心批判(藤澤教聲著・洗心書房復刊)より、以下の御示談を紹介します。
以下、真宗異安心批判 P89-91より紹介。

六・親里にかえる思い

【問】おたづねいたします。助けたいの親様と、助かりたいの私とでありながら、助けて頂くことに安心の出来ぬのは、どこに欠点があるのでしょうか、お諭し下さいませ。


【答】お浄土に参らせて頂くことを、嫁入りするように考えているのではありますまいか。たとえ方によっては浄土の花嫁ともいうけれど、結局安心できぬのは嫁入りのように考えているからです。
たとえば大きな財産家から貧乏人の娘をもらいにきたとき、もらいに来たのは本当であり、嫁ぎたいのも本当である。それに返事のできぬのは二つの疑いがある。
「あの大きな財産家がなぜにこの貧乏な私をもらいにきたのであろうか。なんにも欠点はないというが、人にはいわれないような欠点があるのではなかろうか。」
「また自分のうちをみれば提灯に釣鐘といおうか、こんな貧乏な不器量者が嫁いではとても辛抱が出来まい」
と二の足を踏む。


今もそのように、お浄土参りを嫁入りのように考えているものであるから、出かける後生について如来のお手元に向かって何となくもの足りないような心が起こり、また我が機をながめては無善造悪の一文もたずの私がどうしてお浄土へ参られようかと、自分の罪業について二の足を踏んで安心が出来ぬ。これは要するに御本願のお謂われが聞き不足である。
今度の浄土参りは親里にかえらせて頂く思いである。助けて頂く如来様は実相身というてまことの如来様であり、為物身といって私故の親様であります。私はまた親様の一人子であります。親子の味わいが知られてみれば、助けて頂くことに安心せずにはいられません。


実の親様が浄土に連れてかえると仰せられたならば、親につられてかえる身はまことに安心なことであります。仰せに従うばかりであります。如来様は親様と聞かされても親と思えないというかも知れぬが、親であるものを親だと思えないと言えば何とも申しようはないが、他人の子供を貰って我が子とするには、必ず器量のよい利口なのを選ぶ。信心の親子であれば愚かなつまらぬ子供ほど可愛くてならぬ。今阿弥陀如来様は道理の上から親様だということは種々お話も出来ますが、実際の上から味わえば、善人も悪人も智者も愚者も男子も女人も選びなくお救い下さる。そうしてことに悪人凡夫ほどが可哀相でならぬと仰せられるが、真実の親様である証拠であることがはっきりと味わわれるのであります。(宝章第3号)