
「阿弥陀仏に救われた方は「自らの行いを省み、慚愧と歓喜を感じさせていただく」「正しくない生き方をしていたなあと少しづつでも改めていく」とされます。未信の身から聞かせていただくと常に自分の正しさが問われているようでとても苦しく大変な生き方なのではないかと思います。本願の身になった上でそのような思いが実感できることはありましたでしょうか。また、未信の時そのようなことは特に考えていませんでしたか。」(Peing-質問箱-より)
阿弥陀仏に救われた方は「自らの行いを省み、慚愧と歓喜を感じさせていただく」「正しくない生き方をしていたなあと少し | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
自分を省みることはあります。
しかし、それはお尋ねにあるような「正しさを問われる」ような、いわゆる詰められるような結果ではありません。
自分は大したものではなく、そんな取るに足らないものを救う本願だということです。
以前に、救われたら苦しいのではと考えたかということですが、私がいた環境では救われたという人がほぼいなかったので、そこまで考えが回りませんでした。
これに加えて書きます。
「救われた人」は、ただ「救助された人」にすぎない
お尋ねのような「救われた人はどうなるのですか?」という質問は時々受けます。私自身も、救われたらどうなるのだろうかということは気になっていました。
また、私は以前所属していた団体で「救われたらこうなるのだ」「大安心大満足の絶対の幸福者になる」と聞かされていました。そのため、救われたならば何かすごい事が自分の身の上に起こるように思っていました。凄いことが起こらないにしても、救われる前に比べて一つ人間としてステージが上がるようなイメージを持っていました。
加えて、前述の団体では「救われた」人は「人生の大勝利者」と表現し、救いを求めることを断念した人を「聞法の敗残者」と表現していました。そういう言論環境にいると、必然的に「救われた=勝利」「救われない=敗北」という図式ができてしまっていました。
しかし、「救われた」というのは、文字通り『救われた」だけなのです。「救われた」とは「成し遂げた」とは意味が違います。また「選ばれた」とも違います。
文字通り「救助された人」と何も変わりません。例えば、災害で瓦礫の下敷きになったり、家に閉じこめられて出られなくなった人が、消防隊や自衛隊によって「救助」されたという報道を目にすることがあります。
自分の力ではとても脱出できない状況で、命からがら救助されたのが自分だとしてみれば、災害にあって「救助された」私は、何かを「成し遂げた」訳でもありませんし「選ばれた」訳でもありません。

したがって「人生の大勝利者」と踊り上がって喜ぶことでもありません。
ただ、「救助された」ことに、ほっとしたと安堵する気持ちではないかと思います。「救助された」ことで、人としてのステージが上がるということもありません。
阿弥陀仏に救われたとは、文字通り「救助された」に過ぎません。「救助された」という「結果」と、「自分の中身の変化」はイコールで結ばれるものではありません。
常に阿弥陀仏からの働きかけはあっても、それはお尋ねのように仏さまから自分が問い詰められるような苦しいものではありません。
その上でどう感じて行動していくかは、個々人によって異なるものです。
ただ一つ言えることは、「救われるかどうか」が、「自分の価値基準」となるような考えからは自由になります。「救われた」ことが、自分が偉くなるかのように思うと、「救われない自分」を卑下するような考えになってしまいがちです。
救助された立場で言えば、たまたま救助されたに過ぎません。何も偉くもありませんし、何も見識が高くなったものでもありません。
ただご縁があれば、法を聞き、伝えることが出来ればと思っています。無理して苦しみながらやっているわけではありません。