安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「阿弥陀様は貴方の念仏を完成させるため五劫兆載の苦労をなさったのだ」「今現在も念仏を届け心となるよう必死なんだぞ」のような話から逃げてしまいます。(略)然らばこのような話を聞かなければいいのかと思うとそれは違う気がするので、身動きが取れません」(Peing-質問箱-より)

「阿弥陀様は貴方の念仏を完成させるため五劫兆載の苦労をなさったのだ」「今現在も念仏を届け心となるよう必死なんだぞ」のような話から逃げてしまいます。
考えるにそんな酷いことをしていると思いたくないからなのですが、だからといって法に向かう気はなく寧ろより逃げたくなってしまい、また自分が自分を責めているような気分に陥ります。
然らばこのような話を聞かなければいいのかと思うとそれは違う気がするので、身動きが取れません

「阿弥陀様は貴方の念仏を完成させるため五劫兆載の苦労をなさったのだ」「今現在も念仏を届け信心となるよう必死なんだ | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

阿弥陀仏が命懸けであるということはその通りですが、私を助ける法であることを聞いてください。
自分の姿は気にせずに、助ける法を聞いてください。


これに加えて書きます。
阿弥陀仏(法蔵菩薩)のご苦労について話を聞くことはあります。それを聞いて、「逃げたくなってしまい」「自分を責めているような気分」になるとのことでした。


これについては、そのように考えるのは有る意味自然の反応だと思います。私もそのように思ったことはあります。
人は「これだけお前のために苦労をしたんだぞ」というように話を聞かされると、「申し訳ない」とか「そこまで頼んでいない」と思ってしまうものです。それは、いわゆる互恵性の原理(返報性の原理)といわれるものです。
例えば、食料品売り場の試食コーナーで食べると、ただで貰うわけにはいかないので買わなければと思ってしまうようなものです。


試食コーナーでも、「買わないと悪いな」と思うのですから「五劫思惟と兆載永劫苦労」と聞けば、一生かかっても返しきれるものではないので、逆に「そこまで頼んでないぞ」と逃げたくなる気持ちになるのもわかります。
ただ、試食コーナーなどでは、明らかに店側としては「買って欲しい」という意図があります。しかし、阿弥陀仏の本願はそのような「助けるから○○してください」という互恵性の関係のものではありません。


阿弥陀仏の本願を聞くというのは、「阿弥陀仏の苦労」を聞くのではありません。あくまで、私を助ける法を聞くということです。


五劫思惟については、御文章に以下のように書かれています。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏となりまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。(御文章5帖目8通)


ここで「阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして」とあるので、「ご苦労なさったのだ」という話が出てくるのだと思います。
ただ、阿弥陀仏は「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓われています。言い換えると、「私をたのめ、たのむ衆生を助ける」といわれています。


ここで、質問された方は、この部分に自分で付け足して聞かれているのだと思います。
(原文)「私をたのめ、たのむ衆生を助ける」
 ↓
(赤字が付け足し)(私は命懸けの苦労をしたのだから、貴方も命懸けになって)私をたのめ、たのむ衆生を助ける」


阿弥陀仏がご苦労をされたという事自体は、経典どおりのことです。
しかし、赤字で付け足した部分のように、阿弥陀仏が私に対して「命懸け」を要求しているように思っているのではないかと思います。確かに、話す人によってはそのように聞こえる話をする人もいるかもしれません。ただ、実際に阿弥陀仏がそのように願っておられるとすれば、それでは全ての人を救うことはできません。質問された方のように、逃げてしまう人も多いと思います。


大事なことは、「阿弥陀仏がご苦労された」ということはあっても、「阿弥陀仏が苦労をしたから、お前も苦労しろ」と要求することはないということです。御文章には「南無阿弥陀仏となりまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなり」とあります。
「われらがやすく極楽に往生すべきいはれ」が南無阿弥陀仏なのですから、「お前も苦労しろ」と要求されることはありません。


「それだけ苦労されたのだから、私もそれ相応の気持ちをもたねばならないのでは」と赤文字の付け足しのようなものを考えるのも、「もろもろの雑行」です。それは捨てて「一向一心に弥陀をたのめ」と勧められています。


また、そのように先回りして私が心配するようなヒマはないということです。私たちの日常で、相手方が善意で申し出られたことを「そんなことは申し訳ない」と断ることもあります。それは、自分が困っていないか、「死んでも施しは受けない」と自分自身の何かに拘っているときです。


「相手に迷惑はかけられない」とか「私はそんな施しは受けるようなものではない」と考えるのは、今にも命が失われる私からすれば、どうでもよいことです。阿弥陀仏からしても、そのような考えはどうでもよいことです。
南無阿弥陀仏は、私をたのめ必ず助けるとの阿弥陀仏の本願通りの仰せであり、喚び声です。南無阿弥陀仏を、称え仰せの通り聞いて救われた下さい。