
信心獲得すると「獲信見敬大慶喜」や「よろこぶこころのきはまりなきかたちなり」など、ものすごいよろこびが生じるよ | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
信心獲得したらよろこびは生じます。ただ個人差はあります。
もう一つは、「何かを貰った」「自分の功績を認められた」といった喜びとは違うものなので、それらから想像する「よろこび」とは別のものということになります。
法を聞いた上での喜びということなので、法を聞いても何も思わない間はよく分からないと思います。
お聖教に喜びが生じるとあるのは、何をよろこんでいるかということが大事です。
親鸞聖人の教行証文類の総序の最後にこのように書かれています。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。 浄土真宗聖典(註釈版第二版) (p. 131)
聞いている法を慶んでおられます。法を聞くといっても、これまで聞法してきたことと違う何かが聞こえてくるわけでもありません。言葉となった法は、よほど変わった話を聞かない限りは、誰から聞いても同じ法であり、言葉となった教えです。
親鸞聖人が慶ばれているのは、その「法」を聞いて慶ばれているということです。直接的には、法は言葉となって私に聞こえてくださいます。それは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏を開いて説かれた「教え」の言葉です。
そんなの聞いているだけではないかと思うかもしれませんが、「聞くところを慶び」と言われているのはそのことです。
「勅命の外に領解なし」といわれるように、信心と言っても阿弥陀仏の本願招喚の勅命を聞いている以外にはありません。
したがって、「勅命を聞いた」と言っても、今まで聞いたこともない何かを聞くのではなく、南無阿弥陀仏を聞いているだけです。信を獲た人が慶ぶというのは、法を聞いて慶んでいるということです。
しかし、法については法話を聞かれている方ならば、これまでも耳に聞いてきたわけです。言葉となった法とは「教え」であり「教えの言葉」です。その言葉を聞いて慶ぶのが信心であると言われています。
「信楽」は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。(教行証文類・信文類)
これの中の、歓喜賀慶の心について註釈にはこう書かれています。
歓喜賀慶の心 往生の決定したことをよろこび、聞き得た法をよろこぶ心。
ここに「聞き得た法をよろこぶ心」とあります。
聞き得た法をよろこんでいることが、その信心獲得の慶びです。その法を聞いてよろこぶ心がないのは、聞いていないからということになります。私たちは、如来の法を言葉として南無阿弥陀仏と聞かせて頂いていますが、それが如来の勅命だと聞けません。聞けないときは、ただの「言葉」にしか聞こえないのでよろこびもありません。
質問にあった、「定聚の数に入ることを喜ばず」「よろこばざるは煩悩の所為なり」については、本来の私自身はそのような法を聞いてもよろこぶようなものではないということを言われています。信心獲得しても、さとりをひらく訳ではないのでそこは変わりません。