安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

領解文の「往生一定御たすけ治定と存じ」について教えてください(頂いた質問)

領解文に、「往生一定御たすけ治定と存じ」とあります。これについて解説をお願いします。(頂いた質問)

お尋ねの領解文の部分の少し前から引用します。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
浄土真宗本願寺派総合研究所. 浄土真宗聖典(註釈版第二版)P1226

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」が、安心の段といわれる部分です。


お尋ねになりたい所は「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」の「存じ」の部分だと思います。


「往生一定」については、
往生の信心と申すことは、一念も疑ふことの候はぬをこそ、往生一定とはおもひて候へ。(御消息)
とあるので、「おもひ」も「存じ」も同じ意味で使われています。

そこで、領解文の「往生一定御たすけ治定と存じ」の部分について、「往生一定と思う(思い)」と読みますので、「思える」「思えない」ということが問題になります。


実際、御文章には「思い」という表現がいくつも出てきます。
「往生治定とおもひ」(1-4)「たすけましませとおもふ」(1-3)「すがりまゐらするおもひをなして」(5-12)「信心歓喜のおもひをなすべし」(3-5)


このように「思い」に着目すると、どのように「思う」ことができたら良いだろうか考えます。「往生一定の思い」になれたかなれないかと、自分の「思い」に振り回されると出口が見えなくなってしまいます。


「どう思ったら正解か?」という「思い」はどう思っても間違いです。
蓮如上人が「思う」と言われるのは、阿弥陀仏の仰せのままを思うということです。「我が浄土に生まれるとおもえ」の仰せを聞いて、往生一定と思われるものです。しかし、阿弥陀仏の助ける法をなしに何かを思ってもそれは自力の妄念に過ぎません。往生一定御たすけ治定と思うのは私ですが、法の方から思わせられるものです。


本願招喚の勅命のままが、私の心の上に現れた「思い」ですから、他力の信心と言われます。

その「思い」は、24時間ずっと「思い」として「思い続けられる」というものではありません。とはいえ、自力の信心と違って、「思う」時も、忘れて暮らす時も信心はあります。勅命を聞いて疑わない信楽があります。

昔の人の例えで、それを大海に流れ込む木に例えました。
川に流れる木は、浮かんで見える時もあれば、沈み込んで見えない時もあります。しかし、川の中にある木ですから最後は大海に流れ込みます。

浮かんで喜ぶ時も、沈んで忘れた時も、念仏を称える時も称えない時も、真実信心が臨終まで通って浄土へ届きます。

「往生一定御助け治定と存じ」とは、私が自分で思うのでなく、勅命のままに思うということです。仰せを聞いて疑いない上は、喜ばずに暮らす時も、喜んでいる時もその信心を守ってくださいます。

南無阿弥陀仏と申して、仰せを聞いて、本願を常に思いなさいよと領解文でも勧められています。