安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「 どうしても自分でお念仏をしたり、聴聞をして助かろう、自分で善を積んで助かろうという気持ちがとれないのです。自力で求めきり、自力がすたらないと助からないと思います。どうしたらいいのでしょうか?」(Peingに頂いた質問)

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peing-質問箱-より

どうしても自分でお念仏をしたり、聴聞をして助かろう、自分で善を積んで助かろうという気持ちがとれないのです。自力で | Peing -質問箱-
Peing.netには以下のように書きました。

私はどうしたら助かるかではなく、阿弥陀仏はどうやって助けるかを聞いて下さい。

これに加えて書きます。

自分で何かをして助かろうという気持ちは、中々とれないものです。これは、いろいろな方面からいうことができますが、一つは「そうあるべきだ」という規範意識のようなものから来るものがあります。


言い換えると「助けて頂くのに何もしないわけにはいかない」というものです。「ただ助けられるだけでいいのか」とも考えます。確かに、阿弥陀仏が私を憐れに思われて本願を起こされ、たいへんな長期間の修行の末に本願を成就されたと聞きますと、そのままただで助けて頂くというのは何だか気が引けるという人もあるかと思います。


私たちの日常生活でも「無料」と言われるよりも、「納得できるお得な値段」を提示されたほうが商品を買いやすいというものがあります。お店の一角に「無料」と書かれた商品があっても何となく手が出しにくいですが、「9割引」と書かれていると思わず手が出ます。これは、どんな商品やサービスも世の中にはそれなりのコストが発生するので、「無料」と言われると何か裏を考えたり罪悪感も感じます。それよりは自分が納得できる値段を提示された方が、相手に対する引け目もなく買う事ができます。

自力で求めきり、自力がすたらないと助からないと思います(質問より)

というのも、「こちらが何も出さずに救われるのはやはりおかしい」「無料で受けとるわけにはいかない」ということだと思います。

しかし、本当に困っている時にはそうは言っておれなくなります。少しお腹が空いた程度ならば、食事を提供されたとき「無料というわけにはいかない」と思って無料では受け取らない人もいます。そんな人でも災害に遭って現金も何も手元にない状態になれば、支援物資の食料はとにかくその場では受け取ります。有り難く思う気持ちがある人は、別の機会で災害支援の活動に参加したり募金をしたりしています。


また、「自力で求めきり、自力がすたらないと」ということについて考えてみると、あとどれだけ頑張ればいいのでしょうか?
現実的な時間ではなく、少しここで思考実験をして頂きたいと思います。仮に、貴方の命が無限にあったとした場合、今日一日、あるいは1年間やってきたことをどれだけ繰り返せば自力がすたるでしょうか?100年でしょうか、1000年でしょうか、1万年でしょうか?


自力で求めきろうとする方向はどれだけ時間をかけても救われないと親鸞聖人は仰っています。

みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。(顕浄土方便化身土文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P412)

自力では「微塵劫」という計り知れない時間があっても、救われないと言われています。

阿弥陀仏は、自力を励んだものから救うとは言われていません。
ただ今助けるという本願を建てられているので、ただ今助ける仰せに従って救われて下さい。