anjinmondou.hatenablog.jp
についてコメントを頂きました。
id:hatsukoix 2021-04-20 19:51:59
どういった疑問なら許されるのでしょうか?例えば18願は私を本当に救うのだろうか?という疑問はいわゆる疑蓋だと思います。けれども私がいつも言っているような41願について分からない、念仏者は諸根具足するんじゃないのか、というような強迫的な疑問は許されるんですよね。「本願に対する疑い」と「許される疑問」というものをハッキリ区別する基準というのはないのでしょうか?
質問失礼しました。
でん 2021-04-21 10:22:44
「たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」ですね。
疑いも煩悩の一つなので、当てはまりましょう。
正信偈からも明らかですね。
単純に言えば、「阿弥陀仏はただ今私を助けて下される」点以外の疑問は、何を思っても「疑問」であって「疑情」ではありません。
質問にあるような、41願についての疑問も気になる人は気になるでしょう。しかし、そういう疑問が起きたからといってそれがそのまま「本願に対する疑いが晴れていない」と同じことにはなりません。
「どうして念仏を選び取られたのだろうか?」「どうして18願を中心とされたのだろうか」などのことは、突き詰めて考えて見てもよく分からないところです。そういう「疑問」は起きたとしても、「阿弥陀仏は南無阿弥陀仏でただ今私を救って下さる」ということに疑いないなら、浄土往生にはさわりはありません。
教義的な疑問は、学ぶことである程度解消するものもあります。自分なりに「そういうことか」と分かる事が楽しみとなって、学んでいく人もありますし、そういうことにあまり関心が向かない人もあります。しかし、たとえば教行信証に書かれていることを学べば全て分かるようになるかといえば、そういうものでもありません。これまでいろいろな方が一生懸命研究をされた結果の一部は、今の私が読んで理解出来るようなものもありますが、それでもとても全部が理解できるようには思えません。
反対に、いろいろと学問をして教義に人より詳しくなっても、「阿弥陀仏はただ今私を助けて下される」という点がどうにもよく分からず、やはり何かをした方が早く救われるのではないかという方もあるでしょうが、そういうものは「本願に対する疑い」です。それは、学問を積み重ねていくことで解消することはありません。
南無阿弥陀仏とただ称え、ただ今助けるとの阿弥陀仏の喚び声と聞くのには、何も足すものはありません。