救いの法が完璧であるにもかかわらず、今私が救われていないのは、やはり自力に囚われているからでしょうか。 | Peing -質問箱-
という質問を頂きました。
それに対して以下のように回答を書きました。
自力に囚われて、何かに拘っているのだと思います。
これに加えて書きます。
「○○しなければ救われないのではないか」とあれこれ思いを巡らすことを疑いといいます。それに対して質問をされた方は「救いの法が完璧である」と書かれているので、そういう考えはもっておられないのだと思います。
それでも今私が救われていないのはなぜかということですが、考えられることとして二つあります。
一つは、「完璧な救いの法を聞く為にはまだ何か必要であると考えている」場合です。
これは、救いの法がすでに完成しているにも関わらず、まだ救われていないのは自分でも気がつかない何かがあるからに違いないという思いがあるのではないでしょうか。
「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典註釈版P678)
https://bit.ly/3jVZ9Pw
救いの法はすでにあると聞いて疑いないのが、ただ今の救いです。私の方で付け足す何かはありません。
もう一つは、「救いの法は完璧なのだが、と救いの法を眺めているけど聞いていない場合」です。
いわゆる「理屈としては分かります」と言われるような場合です。それは只の情報のようなもので、実際の救いとは異なります。
最近流行の病気のワクチンが完成しました、日本に第一号が届きましたと報道で知ったようなもので、実際にワクチンを自分が接種したのとは違います。
ただ今助けるという南無阿弥陀仏は私に向けての呼びかけなのですが、私にただ今助けると呼び続けておられる法だと聞いてみて下さい。
それを聞いて疑い無いのを信心といいます。