Peing-質問箱-に、上記の質問を頂きました。
それについて、以下のように回答を書きました。
「この一念、この一称で救われるぞ」という気概は、そのまま私の力で阿弥陀仏の救いを取りにいく考えかたになります。
もちろん精神論で獲信がどうこうなるということはありません。ただ、ただ今の救いであることを聞いて救われて下さい。
これについて続きを書きます。
自身の信心獲得について、いろいろな意見もあります。「そのままでいいのだ」という人もあれば、「真剣に求めねば」という人もあります。
一方が正しくて、一方が間違いということはありません。しかし、精神論に立っていうのならばどちらも間違いということになります。
なぜならば、精神論というのは、物事についてそれができるかできないかは、物質よりも精神に重きを置く考え方です。「気合いでなんとかなる」とか、「精神がたるんでいるから云々」というものです。
勿論気持ちも大事ではありますが、先の太平洋戦争における日本とアメリカの戦争のように、どれだけ「国家総動員」とか「欲しがりません勝つまでは」と言ったところで、圧倒的な物量の差の前では、日本がアメリカに勝てる要素はありませんでした。
精神論がものをいうのは、競争する場面で物質がほぼ同じ場合においていえることです。しかし、ここで話題になっているのは阿弥陀仏に救われるかどうかなので、この精神論の話題はなじみません。
それは、私の立場から言えば、私は救われる側ですから、浄土往生するという点においては私の力はゼロであって阿弥陀仏のお働きが10だからです。0:10で考えると、助ける働きという物量においては私が自身の往生の手助けになるようなものは何一つありません。質問にあるような「気概」も全く役には立ちません。仮に私の「気概」が往生の手助けになるとすれば、私が助かる上で、私の努力と阿弥陀仏の力の関係が、1:9 とか 2:8となります。そういうことになれば、その1や2の私が努力する部分を請け負うことになるので、それができない人は救われないことにになります。
しかし、阿弥陀仏は私の力を借りることなく、阿弥陀仏のお力一つで助けるという本願を建てられました。それが南無阿弥陀仏の名号で助けるということです。
わが弥陀は名をもって物を接したもう(教行信証行巻 浄土真宗聖典註釈版P180)
http://urx3.nu/Zo0v
阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏の名号をで私を助けて下さいます。
ただ、いつまでも生きていることは出来ません。命のある間でなければ救われるということはありませんから、「そのうちなんとかなるだろう」ではありません。
植木等 だまって俺について来い 1964
ただ今助けるという阿弥陀仏の呼びかけが南無阿弥陀仏ですから、それをその通りと聞いて下さい。私が助かるぞ!ではなる、阿弥陀仏の助けるぞ!!を聞いて下さい。