安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。」(頂いた質問)(レンタルなんもしない人について)

阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。(頂いた質問)


これについては、私も同じようなことを考えていたのでよく分かります。
阿弥陀仏に救われたならば、それこそ毎日が「大慶喜」で目に映る全てのものが輝いて見えるようになるのではないかと考えていました。


しかし、実際に阿弥陀仏に救われてたとしても、日常というのは何も変わりません。仲たがいをしていた相手が急にフレンドリーになったりとか、仕事が急に順調になるということもありません。また、病気が突然治ったり、今まで生活上で悩んでいたことが突然解決するということもありません。


これは、阿弥陀仏の救いについての誤解からくるものです。阿弥陀仏の救いとは生死を繰り返す私をそこから出て離れさせ浄土に往生させ、仏にするというものです。その意味では、病気や人間関係の解決をする仏さまではありません。


これについては、阿弥陀仏は医者に喩えられています。それにそって考えるとわかりやすいのではないかと思います。医者は、病気やけがを治すのが仕事です。ですから「あの医者に助けられた」といえば、病気やけがが治ったことをいいます。人間関係が修復されたというようなことは、「医者に救われた」にはないことです。それにも関わらず、医者に向かって「病気を治してもらったあとに、人間関係が何も変わらないのはどういうことですか?」と尋ねる人は普通はありません。


それは、医者の「助ける」範囲にないことを、人は問題にしないからです。
その意味では阿弥陀仏は「後生助ける」という医者であって、それ以外のことについては専門外ということになります。


別の言い方をすると、「後生助ける」以外は何もしない仏様が阿弥陀仏です。


そうなると「何もしない仏様」と聞くと、がっかりする人もあるかも知れません。しかし、この「何もしない」ということも含めて阿弥陀仏は有り難い仏さまなのです。


そこで、最近「レンタルなんもしない人」が話題になっていることを知りました。
私は、新聞広告でその存在を知り、NHKドキュメント72時間をみてみました。

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NHK ドキュメント72時間「密着 レンタルなんもしない人」
www.nhk.or.jp
2019年4月26日(金)放送分です。


これをみて私は、阿弥陀仏のようなことしている人だなと思いました。もちろん、この「レンタルなんもしない人」は後生を助ける人ではありませんが、阿弥陀仏に似ている点があります。


それについて、以下書いていきます。
このレンタルなんもしない人というのは文字通り、何もしない人です。そんな人をレンタルする人が多く有り、依頼が相次いでいるということでした。
以下、本人のTwitterより

なんもしない人(ぼく)を貸し出します。常時受付中です。国分寺駅からの交通費と、飲食代等の諸経費だけ(かかれば)ご負担いただきます。お問い合わせはDMでもなんでも。飲み食いと、ごくかんたんなうけこたえ以外、なんもできかねます

NHKドキュメント72時間でも、この「レンタルなんもしない人」に依頼をする人は、様々です。
飼っている犬が手術をしたので、うまく歩けるかどうか心配なので、そばでみていて欲しい人
家を片づけたいので、それみていて欲しい人(決して手伝いません)
人前でカラオケを歌うのが恥ずかしいけれども、練習した歌を聞いて欲しい。
韓国で整形手術をするための準備の買い物につきあい、出発準備の荷造りに付き合い、整形前の自分の写真を撮って欲しい等々です。


上記に書いたように、この「レンタルなんもしない人」は文字通り何もしません。家の片づけを手伝うこともなく、カラオケを聞くという依頼も、積極的に盛り上げることもなく、整形手術に向けて準備をする人に対しても、整形手術をすることについてあれこれいったりはしません。


ただ、側にいるということと、それに加えて「評価をしない」というのが受けているのだと思いました。


これが阿弥陀仏と似たようなことをしていると思った点です。
思えば、阿弥陀仏の救いに関していえば、私たちが日ごろ考える「救い」と違う点があります。
1つは、助けた相手に負い目を感じさせない救い
2つは、常に側にいるという救い。
3つは、評価をしないという救い。

1、助けた相手に負い目を感じさせない救い

最初については、私たちは兎角、人から助けられたり、善意を受けると「何かお返しをしなければ」と考えてしまいます。それが心の負担となり、人からの善意を断ってしまうこともあります。
それを見通して、阿弥陀仏の救いは、そのような「何かお返しをしなければ」と私に思わせないような救いになっています。
それは、御文章に度々出てくる「弥陀をたのめ」ということです。

阿弥陀仏が一方的に「お前を助ける」といわれている訳ですから、私の方からいえば「では、そこまでいわれるのでしたら私をお助け下さいませ」という形式となっています。

その点で「私が求めた救いではない」というのが大事なところです。こういうと語弊もありますが、あえていうと「阿弥陀仏が助けたいといわれるので、私は仕方なく救われた」という形になっています。そういう救いに関しては、私は負い目を感じることはありません。なぜなら、私がお願いした上で救われたならば何かしらのお返しをしなければならないという形になります。また、私がお願いしたがために大変な御苦労をおかけしたとなれば、私は生きているのがつらくなります。しかし、阿弥陀仏の救いは「阿弥陀仏の方から」の救いであるという点で、私には負担はありません。その点で、「阿弥陀仏に救われた」というのは、気持ちが軽いのです。

2、常に側にいるという救い。

阿弥陀仏は、常にそばにおられます。
私をすくい取って下さる訳ですが、その後は臨終まで放置するということはありません。常に私を、護ってくださいます。いわゆる「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」わけです。とはいえ、それ以上には「レンタルなんもしない人」のように何もしてくれません。しかし、常に護って下さいます。仮に、夜昼つねに護って下さると言っても、私の言動の一々に、それこそ箸の上げ下げにいたるまで、何かコメントをされると、いくら護られていると言っても私は生きづらくなっていきます。
では、なぜ四六時中護られていても、窮屈に感じないのでしょうか。それは以下の理由です。

3、評価をしないという救い。

阿弥陀仏は、私を評価されません。
評価しないというのはどういうことかといいますと、「お前はこれだけ善いことをしてきたから助ける」とか、「お前はこれだけ悪業を積み重ねて来たのだから、どうしようもないお前を助ける」ということはないということです。

私のある属性をとらえて「○○だから助ける」という評価を下さないのが阿弥陀仏です。

仮に私が「お前は○○だから助ける」という本願でしたら、私は死ぬまで「○○」であり続けなければいけません。そうなると、私はある決まった定義にそった人間にならなければなりません。仮に「お前は悪人だから助ける」といわれたならば、死ぬまで悪人でありつづけなければなりません。反対に「お前は善人だから助ける」といわれたのならば、死ぬまで善人で有り続けなければなりませんし、もし善人でなくなったならば、阿弥陀仏の救いはなくなってしまいます。


私の一々の言動に、「それはよい」「それは駄目」と評価を下されずに救って下さるのが有り難いところです。その点では、私の言動にあれこれいわない「レンタルなんもしない人」は似ています。


というのは、私たちは、日々自分の言動を評価されるという状態です。そのため、何をするにしても「この言動はどう評価されるだろか」と考えてしまいます。それが日々の生きづらさを助長しているともいえます。


実際に、「レンタルなんもしない人」はこのように言っています。

「『人に言いづらい話』における『人に言いづらい理由』は実にさまざまです。『友人に愚痴を話すと、話がいろんな人に伝わってしまうかもしれない』『自慢話を人にするのは嫌がられそう』といったわかりやすいものもありますし、『仲間内で自分はドライなキャラクターで通っているので、恋人ののろけ話を言う相手がいない』『深刻な悩みではあるが、話した相手にやたらと心配されたり助言されたりするのもストレスだ』など、複雑な心理が絡んだ依頼も多いです。中には、『友人に自分の悩みや秘密を話してしまうと、関係が悪化したときに、弱みを握られることになってしまう』と考える依頼者もいます。悩み事が人それぞれであるのと同様に、依頼の動機も人の数だけあるように感じます。ただ、いずれの場合でも『普段の人間関係の中では処理しきれない話』であるのは間違いなく、僕が会社員のときに抱えていた“固定された人間関係“による生きづらさを、実は結構たくさんの人たちも抱えていたのかな、と思っています。『レンタルなんもしない人』の需要は、まさに僕自身の生きづらさの中にあったのかもしれません」

奇抜なサービス「レンタルなんもしない人」に依頼が殺到する理由(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

念仏者かくあるべしということについて

実際に、阿弥陀仏に救われた人はどう生きるべきかということが問題になることがあります。実際に、私は以前所属していた団体の影響もあり「阿弥陀仏に救われた人は身を粉にしての恩徳讃の気持ちで布教をしなければならない」と強く思っていました。


しかし、今は「しなければならない」という気持ちはなくなり、「やりたいからやっている」という気持ちでいます。それは、なぜかといえば、「しなければならない」というのは「そうしなければマイナスの評価をうけてしまう」という発想です。念仏者かくあるべしというのは、もちろん世の中の倫理に反することをしてはならないということはその通りなのですが、それ以外の個々人の言動について親鸞聖人はあまり語られていません。
それは、阿弥陀仏が「念仏申せ」以外には私に何かをするようにいわれていないからです。ですから、それ以外の私のいかなる言動についても「それはよい」「それは駄目」「もっと頑張れ」「それしか出来ないのか」「まだ出来るはず」といったような、評価も叱咤激励もありません。


私たちは、人間同士ですとどんな親しい関係でも、いろいろと悩みを打ち明けたり、あるいは相談事をもちかけると、必ず相手から「それはいい」「それは駄目」という評価を下されます。そのために、人に相談するのが苦痛という人もあります。


その点では、阿弥陀仏は私を救う前も救った後も、私を肯定も否定もされません。ただ救って下さり、ただ護って下さる以外に何もされない仏様です。だから、私は気楽に念仏する暮らしを送ることができるのです。どれだけお仏壇に向かって相談事や内心を打ち明けても、阿弥陀仏は私のいうことを評価されません。そういう気楽さはあります。


それは、最初の頂いた質問にある、想像していた「大慶喜」とは違います。しかし、世の他に無い有り難い救いという意味では大慶喜といってもいいものです。一度後生を救って頂いた上は、常に私を肯定も否定も評価もなくただ護って下さるという救いです。

追記

これまで、私のブログに書いた内容について、法話に使わせて欲しいという連絡がいくつかありました。
基本的に、私がこのブログで書いたことを、自身の法話や寺報などににつかわれても全くOKです。改変しても構いませんので、使いたい方はどんどん使って下さい。その際に、こちらに連絡は不要です。