安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ほとんどの人が一生救われないのではないですか?」(タロウさんのコメントより)

ネットラジオ版安心問答#012阿弥陀仏に早く救われる人と時間がかかる人と何が違うのですか?を更新しました。 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
について、タロウさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

タロウ 2018/11/01 00:31

ラジオ拝聴させていただきました。

1:早い人
2:遅い人
3:一生ない人

の、3通りではないですか?。

ほとんどの人が「3」なのではないですか?


必ず開くとおっしゃるから苦しくなります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181031#c1540999887


ネットラジオ版安心問答を聞かれていない方の為に、簡単に説明をします。
今回は、阿弥陀仏に救われるのに、早い人と時間がかかる人がいるということについて、御一代記聞書を紹介して話をしました。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(御一代記聞書307 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1331)

https://bit.ly/2yL56IP

ラジオの中では、「遅速はあっても、開かないことはない」という話をしました。
それについて今回タロウさんからコメントを頂きました。


そこで、タロウさんの意見としては、3通りの人があり、ほとんどは「3・一生ない人」なのではないかとのことでした。
これについては、一向専念さんのコメントにも書かれていますが、「助ける、助けない」という阿弥陀仏の立場からいえば、「助けない人」はいませんし「助けられない人」もいません。その意味で「遅速はあっても、開かないことはない」といいました。


タロウさんがいわれる「3・一生ない人」とは、「未来も助からない人」という意味合いも含まれているのかなと思いました。(違ってたらすみません)


御一代記聞書で、「昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり」といわれているのが、実際のところだと思います。現代語版では、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」となっていますが、原文には「明日あらはす人もあり」とはありません。ラジオで話をしているときに、現代語版を最初そのまま読んでいましたが、よくよく原文を見て見ると、「明日あらはす人」と書かれてない点に気がついて、最後は修正しました。


そういう意味では、やはり二通りになります。「昨日あらはす人」と「今日あらはす人」だけです。明日になっても、私が生きている時間は、今日だけであり、認識できるとしても過去しかありません。昨日までは私は救われていなかったというのは事実としても、それが今日阿弥陀仏に救われないという理由にはなりません。


必ず救われるというのは、阿弥陀仏が必ず救って下さるということで、タロウさんが苦しむ必要はありません。タロウさんの、これまでにどんなことを思ったり、言動をとって来たかは私は知りません。阿弥陀仏は全て知っておられるとはいいながらも、救いに関してはその点は全く問題になりません。阿弥陀仏にとっては、それは救えるかどうかに全く影響がないからです。


過去の自分と向き合うと苦しくなることが多いです。それは、この阿弥陀仏の救いもそうですが、社会生活一般でもいえます。過去のことで苦しくなったとしても、阿弥陀仏はそれとは関係なく救って下さいます。ただ今救うという本願にただ今救われて下さい。


「今日あらはす人もあり」と御一代記聞書にある「今日」は「今日」なのですから。