安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「突き詰めれば、私の願いは現世利益で、現世利益を求めて仏教を聞いていることがわかります。楽になりたい、楽しい世界で生きたいと思っている私は、どう生きたら良いのだろうと迷っています。」(高田馬場さんのコメントより)

高田馬場 2018/10/19 02:54
私は毎日仕事やお金、人間関係に悩み、この世界から抜け出して楽になりたい、楽しい世界で生きたいと願っています。
だから、仏教を聞き求めていけば絶対の幸福になれると聞き、絶対の幸福の世界に憧れ、絶対の幸福になりたいと思うようになりました。
突き詰めれば、私の願いは現世利益で、現世利益を求めて仏教を聞いていることがわかります。。
楽になりたい、楽しい世界で生きたいと思っている私は、どう生きたら良いのだろうと迷っています。
ご意見を聞かせて頂けると有り難いです。

[http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181016/1539629012#c1539885291>

高田馬場さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

すでに、園児さん、大船さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

まず、仏法を聞き始める動機として、「こういうものでなければならない」ということはありません。一人一人何かしら思うことがあって聞いて見ようと思って聞き始めます。その意味で高田馬場さんが、いろいろな苦しみに悩むことがきっかけとなって仏法を聞こうと思われたのは、何も批判されるようなことではありません。
しかし、高田馬場さんがいわれるところの「絶対の幸福」とはどういうものを想定しておられるのかはよく分かりません。言葉としての「絶対の幸福」はあるものの、それがどんなものかというのは一人一人異なる部分があります。なぜなら、「絶対幸福とはこういうものである」と書かれた経典もお聖教ないからです。

浄土真宗では、生死を離れるとか、有無を離れるという言い方をします。

(5)
解脱の光輪きはもなし
 光触かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまふ
 平等覚に帰命せよ(浄土和讃)

現代語訳
束縛から解き放ってくださる如来の光明は、いつの時代にもどんなところにも働いて下さっている。
この光明に触れるものは、有ればあるで苦しみ、無ければ無いで悲しむことから解放されると、『讃阿弥陀仏偈』には述べられている。私たちに平等にさとらせてくださる阿弥陀仏に帰命したてまつれ。

有無を離れるというのは、生きるとか死ぬということに苦しみ悩むことから離れるとこでもありますし、金持ちとか貧乏とか、背が高い低い、能力が高い低い、逃げるとか追いかけるとかそういったことから離れるということです。

そういうことを絶対の幸福と言われているのでしょうか?