みそみそ 2018/02/18 23:16
(略)
はい。言葉の意味では六字の名号を常々聞かせて頂いております。
ただ聞けば聞くほど、私の心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいになり、阿弥陀様からはるか彼方に心は離れていってしまいます。雑な例えで言うなれば、私には育ての親とは別に、生まれてすぐに他界した生みの親が居たとして、
ある日突然その事実を育ての親から告げられ、
「これから辛い時、悲しいときがあったとき、その親の名を称えなさい。今はもう、『名前』と言うかたちでしか、影も形も存在していないけど、
その人は誰よりもお前を愛し、お前の幸せを願っていた。そしてその思いはあの世の影から、守護霊みたいな形でお前の直ぐ側で今もお前を愛し、支えてくれているから。」
「だからこれからの人生、なんにも心配すんな。後生のことも心配すんな。」そんなことを言われたって・・・だいたいそんな心境です。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180218/1518899734#c1518963419
みそみそさんのたとえ話は、心情をよく書かれていて私もよく分かりました。というのは、私もみそみそさんのようなことは考えていました。
南無阿弥陀仏といっても、六字のいわれといっても、それは「言葉」ですからその言葉をどれだけ眺めて見ても、耳で聞いても「文字情報」以上の何かはなかなか分からないものです。
そもそも私たちが日ごろ使う「言葉」というのは、辞書を引けばその「言葉の意味」は分かります。しかし、言葉はあくまで「乗り物」であり、「誰が」「誰に」「どういう意図で」言ったかによって意味は全く変わります。
例えば「いいね」という言葉も、誰が誰にどういう意図によって言ったかによっては「称賛」にもなれば「皮肉」にもなります。もう少し具体的に言えば、オリンピック競技の素晴らしい映像を見て「(この選手は)いいね!」と言えば称賛することになります。それとは別の場面で、毎日忙しく働いている社会人が夏休みが二ヶ月ある大学生に向かって「(休みが多くて学生は)いいね!」と言えば、皮肉になります。
南無阿弥陀仏は、親鸞聖人は「本願招喚の勅命」と言われていますが、そこで大事なことはその「言葉(南無阿弥陀仏)」は「誰が」「誰に」「どういう意図で」言っているのかということです。
この本願招喚の勅命は、浄土真宗辞典で引くと以下のようにあります。
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ほんがんしょうかんのちょくめい 本願招喚の勅命衆生に対して「帰せよ」と命じる如来のよび声のこと。摂取して衆生を必ず救うという仏意を表す。(P616)
「帰せよ」とは、ジャニーズ事務所の偉い人風に言えば「You!私に助けられちゃいなよ」といったところでしょうか。大事なことは、「私に」「阿弥陀仏が」「助ける」と言われているということです。
確かに「阿弥陀仏が」というのは、みそみそさんにとってよく分からないといわれるかもしれませんが、「助ける」は「私に」言われていることなのです。
例えば「有り難う」と言う言葉は、世の中にいろいろとありますが、辞書で引いた「有り難う」には大した感慨はないと思います。しかし、私に対して誰かが「有り難う」と言った時に、みそみそさんのコメントでいうところの「心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいに」なるでしょうか?
少なくとも「いやいやいや、そんな御礼をいわれるほどでもないですよ」とか「ちょっとうれしい」位には思わないでしょうか?
なぜそう思うかと言えば、直接私に「有り難う」と言われるからです。
同様に、南無阿弥陀仏は「かつて尊い仏が仰ったそうな」という話ではなく、現在ただ今私に「助ける」とよびかけられているのです。ただ今私を救うという、南無阿弥陀仏にただ今救われて下さい。