安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「もう救われる方法にこだわるのは辞めよう。「私を救ってくれる」「どんなときも見捨てないでいてくれる」そんな存在がいると言うだけで充分じゃないか。そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中は空っぽになります。(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2017/09/27 21:05
有難うございます。
しかし、もう救われる方法にこだわるのは辞めよう。「私を救ってくれる」「どんなときも見捨てないでいてくれる」そんな存在がいると言うだけで充分じゃないか。
そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中は空っぽになります。

阿弥陀佛の大悲を全く感じることが出来ません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170926/1506410986#c1506513907

みそみそさんの言われることもよく分かります。
「阿弥陀仏の大悲を全く感じることが出来ません」というのは、現在または過去に感じたことのない何かをもって「阿弥陀仏の大悲」と思われているのではないかと思います。私もかつてはそのように思っていました。

しかし、振り返ってみると、阿弥陀仏の大悲というのは救われる前からすでに私に降り注いでいたものだったのだというのが、後から思うことです。人によっては「そんなの分かる訳ないやん」というものかも知れません。
今まで当たり前に見てきたことが、そういわれて見れば阿弥陀仏の大慈悲であったのかと言うのが実際です。

みそみそさんが「心の中が空っぼになります」と言われるのは、ご自身が想像しているところの「今まで見たこともないなにか」にあえないからなのだと思います。


しかし、考えて見ると私が日ごろ接しているいろいろなもののなかで「あって当然」なものは何もありません。それでも、私は最初からあるものに関しては、忘れてしまいます。例えばこの記事を読んでいる瞬間にも呼吸をしている「空気」もあって当たり前になると、その存在は忘れてしまい(または始めから認識しないまま終わり)ます。


例えば、「親」がいる人は「親がいる」ことに「有り難い」と思う人は多くはないかもしれません。また、子供のいる人にしてみれば「子供が生きている。成長している」ことに「有り難い」と思う人は大多数ではないかもしれません。そのいづれも、現在起きているいろいろなことを「当たり前」と思っているからではないかと思います。しかし、それらの目の前にあるものは、ある時に無くなってしまうものばかりです。そういうことからすれば、目の前にあるさまざまなものがあるということは一般的な言葉で言えば奇跡としかいいようがありません。

阿弥陀仏の本願のお働きに関しては、その通りと疑い無く聞き入れるか入れないかの違いはあっても、常に私に働いておられるものです。南無阿弥陀仏の念仏も、すでに称え聞いておられると思います。ただ、その南無阿弥陀仏が「往生の業」と聞いてもそうとは思えない、疑っているだけです。

ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。(親鸞聖人 御消息23 末灯鈔9)

「とかく御はからひあるべからず」と言われています。あれこれと疑うのも計らいですが、「きっとこんなことが実感されるようになるだろう」「今まであったこともないものにあえるのだろう」というのも計らいです。
今まで聞いてこられた阿弥陀仏の救いや仏願の生起本末も、「こういうものだろう」という計らいはあると思います。しかし、そういうはからいは必要ありません。ただ今救う法をただ今救う法と聞いて下さい。