安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「いくら念仏を唱えても、いくら御法話を聞いても一向に救われません。もう救いに逢うことは諦めて、生きている内に仏法が聞けただけでも良しとして、残りの人生を閉じたほうが良いのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/09/13 19:42
(略)
いくら念仏を唱えても、いくら御法話を聞いても一向に救われません。

もう救いに逢うことは諦めて、生きている内に仏法が聞けただけでも良しとして、残りの人生を閉じたほうが良いのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160910/1473509206#c1473763379

よくありません。

阿弥陀仏が貴方を救うことをあきらめたのならば、救いにあうことをあきらめるのも理解出来ます。しかし、阿弥陀仏はあきらめておられません。言い換えれば、本願を建てられた時から、一度もあきらめたことがないからこそ、本願はすでに成就しているのです。

何とか助かりたいと念仏されたり、仏法聴聞されているとのことですが、そういうときは阿弥陀仏と私の間でなにかやりとりをしているように感じることがあります。
例えると、阿弥陀仏に私がボールを投げるのですが、なかなか阿弥陀仏からボールが返ってこないような感じでしょうか。これは、私の方から阿弥陀仏に働きかけるけれども一向に「助ける」と言って下さらないような感じです。念仏を称えるのも聴聞するのも、阿弥陀仏にボールを投げるようなつもりでされているのではないでしょうか?

しかし、実際は阿弥陀仏から私の方へとボールは投げられています。あとは私がそのボールをどうするかなのです。
南無阿弥陀仏は、私に投げられた「助ける」のボールです。私は、助けるの仰せを聞くか聞かないかです。どれだけ私がそのボールを無視したり、気がつかなくても、阿弥陀仏は投げ続けられます。

阿弥陀仏が、やめられない限り私があきらめることはありません。また、私があとらめるかどうかで、阿弥陀仏は救いを断念されることはありません。
今まで救いを求めて来た時間は決して短くはないでしょうが、ここでやめることはありません。ただ今救われてください。