安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏のいわれを聞こうとすればするほどわけが分からなくなります。」(みそみそさんのコメントより)

本願のいわれを聞くということについて、前回のエントリーのコメントに関連して書きます。

みそみそ 2016/06/10 23:07
YGM様
どこが分からないのかも分かりません。
南無阿弥陀仏のいわれを聞こうとすればするほどわけが分からなくなります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160608/1465370588#c1465567622

ここで、南無阿弥陀仏のいわれを聞こうとするのは、「南無阿弥陀仏のいわれを聞いてどうにかなったのが信心」という意味でいわれているのだと思います。

もし「聞いてどうにかなったのが信心」だとすると、前と何も変わらない状態では助かっていないということになります。その一方で、「聞いているのが信心」「聞即信」という説明もあるので、分けが分からなくなっているかもしれません。

本当は、「南無阿弥陀仏のいわれを聞いているのが信心」です。これを「聞即信」ともいいます。しかし、そう聞いてみると「前から聞いておりますが?」「これが信心ですか?」という疑問が起きてきます。「聞き始めた頃となにも変わらないのが信心ではない」と考えると、やはり「聞いてどうにかなったのが信心」という考えに戻って来てしまいます。


そこから「南無阿弥陀仏のいわれを聞いている」に、なにかを足して「いつもと違う聞いた」になろうと以前の私は考えていました。
例えば、いつもの料理にちょっと別の調味料を足して一味違ったものにする「チョイ足し」というのがあります。具体的にはボテトサラダにわさびや、食べるラー油を足してみると、いつもと違いかつ、美味しくなるというものです。私も実際やってみましたが、ワサビのチョイ足しは確かに美味しく感じました。


みそみそさんは、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ことに「何か」をチョイ足しすると、分からない話が分かるように、有り難くない話が有り難く感じられるようになると思っておられるのではないでしょうか。私も、そう思っていました。

しかし、南無阿弥陀仏のいわれは、それそのものが救いであり、何かをチョイ足ししなくても有り難い話なのです。先ほどのポテトサラダでいえば、「ワサビをチョイ足ししたら美味しい」と言いましたが、これが毎回となると飽きてしまうものです。結局、そのままのポテトサラダが一番美味しいと今は感じています。しかし、チョイ足しならば、一時期美味しくなるようなものでも、このポテトサラダにワサビに加えてラー油やねり梅、イカの塩辛と、どんどん足して行けばそれこそ「わけの分からないもの」になってしまいます。

これは、食べ物にたとえたものですが、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ことに満足できず、次々と「よいらしい」と聞いたこと、思ったことを足して行くと最後は分けが分からなくなります。最初から、チョイ足しが必要ないのが南無阿弥陀仏です。その救いの法をそのまま聞いて救われて下さい。