安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「50 信者の地蔵供養(其二)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

50 信者の地蔵供養(其二)

実に心機一転ということや、宿善開発ということは、ふしぎのようなもので。鬼の心で参られた人が、一座の聴聞で、忽ち仏心になってしまわれたので。そのおかみさんは、尚も話をつづけられました。


「説教がすんで、私は泣き顔を人に隠して帰りました。旦那が炉端におらるるのに、ただ今帰りましたがモー言われず。胸が迫って、旦那の膝元へ亡き倒れ。悪かった、悪かった。堪忍して堪忍して下され……と私は叫びました。


その時旦那は驚いて。
『寺参りするはよけれども、訳も理屈もなんにもいわず。只堪忍してというたとて、私も何ともしようがない。何事も堪忍はしてやるから泣いてくれるな。』
といわれました。

言われて見れば、いよいよ私は、勿体ないやら、申し訳ないやら、とても泣かずにおれんので、泣き泣き是までの心得違いを御詫びして、その夜は夫れで過ごしましたが。その後というものは、苦しい夢の覚めた心地。気分もよくなる、食事も出来る、まるで心は入れ替わり。旦那がいよいよ尊くなり。幾日か泊まってこられても、恨みもつらみも更になく。にこにこ機嫌で、おあしらいが出来るようになり。妾のことまで可愛いくて、二人の子供もなつかしく。内証で品物を送ってやるようになりました。


ソコデ或る時、旦那の寝物語に。
『私も何時まで、こうしてもおられまい。妾のことも、きまりを付けたいと思えども。夫れより先に、二人の子供を始末せねばなるまい。』
といわれた時に、この私は旦那の話に飛びつく程の勢いで。
『旦那様、夫れは私に始末をさして下されませ。子供はどうぞ私にくれて下され』
といえば。

旦那は静かに。
『お前がその気になってくれたか、夫れでは私も喜ばしい』
と言われました。」


「おいおいおかみさん、夫婦仲良しの寝物語も有り難いが。地蔵の衣はどうなりました。」

「アハハ……松澤さん、つまらんことまでお喋りして、申し訳もありませんが。どうぞ、もう少し聞いて下さい。」

「御法礼も出さずに聞かれる話だから、少しなら辛抱しましょう。」

「御法礼は私から包んで差し上げても、聞いて貰いたいのでありますから。どうぞ辛抱して下されませ。その後旦那は妾にひまをやり、事情を明かして外へ縁付けてしまわれて。二人の子供は家へ引き取って下されたが。その時の私の喜びは、何に譬うるものもなく。是こそ真に地蔵様の御授け子。余所の御方は、同じ夫の子供を持つにも。死につ生きつの難儀をなさる習いじゃに。虫も病まねば難儀もせずに、現在旦那の子供をば、一度に私は二人まで。持たせて貰うた幸せは是も地蔵様の御方便。


夫れのみならず、夫が御縁で段々と、御寺参りに身を入れて。今は六字の主となり、無量永劫不足のない身になったのも。残らず地蔵様の御方便と思うて見れば。松澤さん。自分の困ったとき、御厄介になったものが。今は不足がないからというて、何で顔向けせずに居られましょう。私の迷うていたときは、五月蝿いほども毎晩々々御苦労かけた地蔵様。その時不具の子供でも、一人授けて下されたら。いよいよ鬼が鬼になりこの世も後生も阿鼻叫喚の、地獄で暮らすのであったろに。今は信心決定し、この世も安楽、未来も極楽。何一つ不足のない身になったのも、偏に地蔵様の御陰と思えば。顔向けせずにはおれんので、此頃旦那にお願いして、御礼のしるしに袈裟衣、寄進をさして貰いました。


何処の道でも、地蔵様を拝む度毎に。御陰で此の身にさして貰いましたと、尽きぬ御礼を申します。地蔵様ばかりではありません。この様に遠い所の初夜参り。下向が遅いと、旦那が寝て仕まうておられます。若し熟睡して御座るその時は枕元へ静かに座り。今夜は仏拝んで寝るよりは、旦那を拝んで寝ましょうと。


松澤さん、笑うて下さるな。ほんとに私は珠数をかけ、女は三界に家持たず。旦那の家より、外に居場所のないものが、なんぼ後生が大事でも。旦那の許しがなかったら、閾三寸は出れんのに。いつ御参りと願うても、行って来いよと機嫌よく。伴には誰をつれてゆけ、雨が降るから車でゆけと。親切こめて、出して下されたればこそ。万劫にも得難い信を得て、喜ぶこの身にさして貰うたも。そんな旦那の御陰様。こんな尊い御方をば、昔は恨んで粗末して。暮らしたことの残念やと。しみじみ懺悔の念仏で、いつも休まして貰います。


旦那ばかりではありません。二人の子供もよく育ち、下女や下男や番頭まで。店の仕事や勝手元よくも勤めてくれればこそ私が気楽に参らるる。そうして見れば家内中、総懸かりにてこの私を助けてくれるとは思われて。何方へ向いても、御恩尊や有り難や。使われておる犬猫や、馬や鶏までこの私の、後生の手伝い。しておるように喜ばれ、無理の扱い出来もせず。可愛い可愛いで日暮らしさして貰います。」


長々おかみさんの物語り、私は実に感心して聞きました。ここに皆さん、注意をして味わうて貰いたいのは。地蔵様に法衣の供養をしたといえば。事柄は、たしかに雑行雑修のようではあるが。信者の仕事は、決して雑修になっておらぬので。若しもこのおかみさんが。法衣の供養はしてみたいが、雑修になっては済まぬゆえ。地蔵様には顔向けせぬ、というような心なら。表面はいかにも一向専修のように見えても。心は不至心の雑修である。そこで私は。雑行ということを事相や形式の上では決められん。飽くまで信心の有無に依って、決着せねばならんことと思われます。


この大川という家は、かなり財産もあり、手広く商売もしてあるが。割合に御法義はなかったが。このおかみさん一人の喜びで。旦那を始め家内中、分家の末まで御法義を大切にするようになり。家政も益々繁昌し、随分信者の模範としては。数々の話もありますが、今は略しておきましょう。私も一二度此の家に立ち寄り、饗応を受けた事がありますが。夫婦二人であしらいに出て。
「松澤さま。この戸を開けてあの戸へ走り、座敷中から寝間廻り。私は逃げる旦那では追われる、月に幾度の修羅道であったのが。今は六字の御力で、要らぬ戸などは何年にも、開け閉てする用事がなくなりました。」
と、おかみさんが話せば。
「イヤ松澤さん。嬶が念仏申すので、家内が見事におさまって極楽のようになりました。浄土真宗の尊さは是で値打ちが有り余る。極楽参りは此の上の景物と思われます。」
と旦那が口を添えらるる。


アア座敷の狭いほど陳列された山海の珍味より。この御夫婦の御話しは、又と聞かれん御馳走と。私は味わうて参りました。是でこそ浄土真宗は、未来教にして現世教。現世教にして未来教。真俗二諦、現当二世、光輝く信仰の活躍は。此の上もないことと仰がれる次第であります。


以名摂物録 後編 終

亡父の常にいわれとことを  祐然跋


人毎に一つのくせはあるものを
  我には許せ念仏のくせ
くる珠数を百もおとして有難や
  から手で参る弥陀の浄土へ