阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)
阿弥陀仏の本願を真剣に聞こう、聞いたら聞き開けることがあると思っていたけれどもなかなか聞けない。現在は、どうしたらいいか分からないという御尋ねです。
確かに、阿弥陀仏の本願を真剣に聞こうと思えば思うほど、なかなか聞けないものです。それはなぜかと言えば、「真剣に聞こう」と思う人は、「助かりたい」と思う一方で、自分の力をあてにしているからです。それでは、阿弥陀仏の「助ける」の仰せを聞いたことにはなりません。
昨日と、本日、大学入試センター試験が行われています。私も過去受験をしたので、受験生の心配はよくわかります。この受験生の心情と、質問された方の気持ちは似ている部分があります。
私の実例を紹介しますと、かつて私が受験生だったとき、近所の「勉強の神」に初詣でして、合格祈願をしていました。それまでの初詣でとは違い、少し真剣に手を合わせていた事を覚えています。日頃は、神社に手を合わせたところで、本気で何か御利益があるとは思っていませんでした。ところが、いざ受験となると、「なにかの手助けになることがひょっとしたらあるかも」という気持ちになり、その「何かの手助けがありますように」と思って手を合わせていました。
これは、受験をした方なら分かると思いますが、「受験は水物」とはいうものの、大半の受験生にとって、それまで勉強してきた学力以上の点数を受験でとることはほぼありません。例えば、模試でD判定の大学に合格すると人はあっても少数です。そこで「日頃の力が出れば」合格出来る大学を出願します。受験祈願も、そもそも「自分の力以上の成績を出させて下さい」ではなく「日頃の力を発揮できますように」という願いに成っています。その根底にあるのは、まず自分の力以外に受験の成功はありえないということで。次に、神頼みはあくまで、自分が力を発揮するための心理的安心を得るための補助に過ぎないということです。
そこで、先ほどの阿弥陀仏の本願を真剣に聞いたら助かると思っている人の話に戻りますと、前述の受験生とよく似ています。
真剣に聞いたら助かると思っている人は、あくまで『自分の力以上のものは結果として出ない」と思っている人です。言い換えると、それだけ自分に自信を持っている人です。これを自力をたのむともいいます。また、それだけ自分に自信を持っているから、阿弥陀仏の救いはあくまで補助的な扱いになっています。その補助的というのは、別の言い方をすると、「本来浄土に往生できる私」を、少し手伝ってくれるのが阿弥陀仏の本願だと思っているということです。
しかし、そのような人は、阿弥陀仏の救いを勘違いされています。なぜなら阿弥陀仏の本願はすでに成就しているからです。私の力を足す必要もなければ、私の力をサポートするという本願でもありません。
親鸞聖人は「大悲の弘誓をたのみ」と言われています。これは私の力は必要ないと言われていると同時に、「本来浄土に往生できる私」という可能性を一切認めておらない事で言われています。なぜなら、阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏となられたのは、私の力を使わなくても、私を浄土に往生させるためだからです。
「助かるはずの自分」という自信は捨てて、「自分の力では助からない」と聞き入れて、ただ今救うの法を聞き入れて下さい。
どれだけの聖人といわれる人も、自分の力で浄土往生はできないと、「自力の往生」の望みを捨てて、南無阿弥陀仏の光にあわれました。
それを親鸞聖人は、御和讃に言われています。
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願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃)