安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「38 善根捨てるは是れ邪教」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

38 善根捨てるは是れ邪教

 世間の言葉に、家庭紊乱とか、財政紊乱など申しますが。紊の字はブンというのが本音で、ビンという音はないのだそうです。よって本当は、ブンランと言わねばならぬのを。何時とはなしに、ビンランビンランと間違って来てしまったので。今日では仕方がない、ブンランなどというよりは、間違いのままでビンランというて通用させた方が、却って穏当であると、或る学者から聞きました。
 
 
 成るほど世間のことは間違いのままでも、通用さえ出来ればそれでよいが。後生の問題や安心のことは、聊か間違うていては通用が出来ぬから、そのままにしておくという訳にはまいりません。
 
 
 そこで前席より御話し申しかけた雑行を捨てるということも。単に善根功徳を捨てることじゃ、と昔からいいならわしておることで。而も現今の学者までが、持った品でも捨てるように考えて。説教に文書に遠慮なく、世間に流布するようなことでは。それこそ宗意安心の紊乱にもなるかと思われて。私は自己の不審のあるところを前席に五箇条出しておきました。何も人様を謗るためや、争いを好むために言うのではない、信仰上の大事と思えばこそ、御話しをするのであるますから。私の間違うておるところは、皆様から幾重にも御知らせを願いたいことであります。
 
 
 先ず第一に、龍樹菩薩が、一大阿僧祇劫の間。お積みなされた善根を、捨てておしまいならるというは。如何なる意味を申すのか、私は更に分かりません。口では何とでもいわるるものであるが。事実善根功徳などというものが、口で言うように、そんなにうまく捨てらるるものであろうか。若し善根功徳を、捨てる伝授があるならば。私は千円出しても聞きたいものじゃ。そうすると私はそれを応用して、悪業煩悩を捨てる方法を発明し。皆様に三悪道へ落ちぬ伝授を、してあげたいと思います。
 
 
 善根にせよ悪業にせよ、一度造ったうえは。自由に捨てるなどの、出来るものではあるまい。必ず善悪の果報を受けてしまわねば、動かぬものが合同のきまりである。既に初果の聖者が、一分の無漏智を得たときに。今迄一大阿僧祇劫の間、罪から寝た有漏の善根が。仏果に進むと邪魔になるので、無漏智を持って、有漏善を焼き滅ぼさねばならぬ。その焼き滅ぼすにさえ、中々容易の騒ぎでない、ということじゃに。その善根功徳を振り捨てるなどと。勝手のことをいうてしまっては。丸で業道を無視してしまうた話になる。
 
 
 第二に、阿弥陀如来は罪や障りでさえ、山ほど有っても邪魔になさらず、御助け下さるる御方じゃのに。善根功徳は邪魔になるから、捨てねばならぬということでは、甚だ分からん話である。
 
 
 兎角悪人正機という言葉に迷うて。弥陀の本願には、悪人でなければ、御客になられぬような考えを持った人から間違い出したことである。昔の地獄一定法門や、近頃の罪悪観を異様のところまで持ち運びして、考えて御座る御方々は。皆この善根を捨てねばならぬ、御仲間であるかも知れない。
 
 
 既に善導大師は、無有出離之縁の機を談ずるに、散善義の上には、罪悪生死の悪機を出してあるけれども。礼讃の方では、善根薄少の善機を出していうてある。これより伺うて見れば、善業の機でも悪業の機でも、共に出離の縁にはならぬので。願力成就の報土であるから、自力の心行でゆく人なら。大小聖人といわる善人でも、間に合わぬというまでのことで。善根を捨てねばならぬ、というような訳は更にないのじゃ。
 
 
 依って存覚上人は有善無善を論ぜず、と仰せられ。蓮如上人は鴨の脚の短きをも、鶴の脚の長きをも、その侭でよいぞと御示し下されて。有善の長いものが、無善の短いものにならずとも。善機は善機のまま、悪機は悪機のままで。御助けくださるるが、五乗斉入の本願である。然るに龍樹菩薩や天親菩薩が、善根功徳を捨てておしまいになるなどというては。本願の正意に、背く話と言わねばならぬ。
 
 
 第三に、雑行捨てるということが、善根功徳を捨てることじゃとして見ると。真宗は実にこれ、邪教となってしまいます。その訳は、善根には種類がいろいろあるので。有漏善あり、無漏善あり、世間の善根出世間の善根、積極の善、消極の善と数々ありますが。我々凡夫には、無漏善や出世間の善根こそはなけれども。有漏善や、世間の善根は、多少あるべきわけなので。又なくては済まぬのであります。
 
 
 乞食に施す一厘の銭でも、比丘尼に捧げる一粒の米でも。決して悪業ではありません。況んや公益に尽くすことや、慈善救済事業などは、たしかに善根であります。しかしこれらの善根は多少有っても、仏に成る用に足らぬは愚か。地獄へ落ちる差し引きにも足らぬので。命終われば悪業の重さに引かれて、地獄へ必ず落ちねばならぬ。去りながら、地獄へ落ちても、造った善根は消えもせねば、失せもせぬ。何時かの果てには、必ず報うて来るのである。然るに善根功徳を捨てるというては。斯かる世間の慈善や救済も、やまてしまい。殊に三世諸仏の浄業の正因ともいわるる。父母に孝養も、主君に忠義も、捨てておくのでありますか。それではいよいよ大変のことになる。
 
 
 而も消極的の善根からいうて見ると。悪いことを、せぬのが一つの善根で。生き物の命をとらぬ、人の物を盗まぬ、邪婬せぬ、妄語せぬ。これらが皆善根である。それを捨てよというたときは、どうなるのです。盗みをせぬが善根ゆえ、チョイチョイ盗みをせよというのですか、邪婬もせぬが善根じゃから、時々間男をせよというのか。そうすると、若く時から貞女をたてて、七八十にもなったお婆さんは、気の毒なものじゃ。相手がないで間男も出来ぬ。それでは雑行を捨てる道がないことになって来た。皆様笑うて下さるな。こんなことでは真宗の雑行捨てるということは実に邪教も甚だしいことになります。