安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「27 三信十念影略互顕」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

27 三信十念影略互顕

 次に第六の不審というは。本願の上ではたのむ三信と称うる十念と、二つ誓ってあるけれど。善知識の御化導へ来て見ると、能信能行の場合は別物として。所信所行の勅命を、知らせて下さるる場合においては。必ずためめよの仰せ一つか、若しくは称えよの御勧め一つで。たのんで称うるものを助けるの勅命じゃぞと、二つ揃えて本願の通り御化導下されてないのは、どういう訳であろうか。


 答えて曰く、是はたのむと称うるということを、全く別物のように思うていては、とても解らん話にして。虚仮の称名であったなら、信心と離れたものに相違はないが。真実の称名ならば、必ず信心を具足し。真実の信心には、必ず名号を具足してある。依って信と行とは不離なれば、勅命の場合に於いては。何方から呼んで下されても、同じことなので。たのめよと仰せられたお言葉には、称えよの心は、言わずして含んであり。称えよの勅命には、必ずたのめよの御意は、こもっておるのである。


 これを存覚上人は、「影略互顕」と御釈なされてある。影略互顕というは、影に略して互いに顕すということで。今陛下がお通りに、皆さん気をつけなされと警官が命じたは。心に気をつけておりさえすれば、相はどうでもよいというものではない。心に気を付けなされと、いうた言葉の影には。体も静粛にせよという意味は含んでおる。

 又警官が皆さん脱帽して静粛になされというたときに。心の話は略されてあるけれど。いうた言葉の中には、心にも気をつけよということは顕れておる。


 今たのめよと仰せられても、称うることは要らぬぞという思し召しでもなく。又称えよと仰せられたも、たのまずにおれというのでもない。たのめの影には、称えよの御意も顕れ。称えよの言葉には、たのめの仰せも含んであるのじゃから。たとい言葉は片方ずつでも、お心は互いに顕るることなれば。たのめとあるも三信十念称えよというも三信十念。どちらも同じことに頂けよとあるが影略互顕の御指南である。


 これを香月院師は、第十八願を三方正面と見よと教えられた。一方から見れば三信十念、一方からはたのむばかり、一方からは称うるばかり。三方共に違えども。何れもたのんで称えよと、三信十念の正面にして。更に別義はないぞよと仰せられた。

 こんな学者の御話しは、皆様に御飲み込みは出来ずとも。要するところ、たのめとあるも称えよとあるも。言葉は片方ずつなれども、何れも同じく、たのんで称うる二つ具足した。仰せであることゆえに。どちらの御化導を頂いても、違うところはないことと、了解して下されたい。