安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「12 価値のふみ違い」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

12 価値のふみ違い

 引き続いて御話しを申します、第十八願の三信十念、若不生者の思し召しについて。三信とはたのめの仰せ、十念とは称えよの勅命、若不生者とは助けずばおかんの御約束。その御約束通り出来上がったが、南無阿弥陀仏の六字であるゆえに。この六字を信の方よりいうときは、たのむばかりで助けるぞよの勅命となり。行の方よりいうときは、称うるものを迎えとるという仰せとなる。
 
 
 そこで数多の同行が、たのめ助けるの仰せを聞いて、たのむ一念に力を入れ。この一念がなければ、助けて貰われぬように迷い込み。たのみようや、信じぶりに、難儀して御座る御方も有り。又称うるものを迎えとるの仰せを聞いて。称えにゃすまんと励みだし、称うるところに、骨折って御座る御方も有る。
 
 これが情けないほど、本願の正意を取り損ない。一文ぶりも値打ちのない、たのむと称うるに値打ちをつけ。千両万両に替えがたい、助けるぞよの御手柄に目をつけず。助けて下さるるは当たり前じゃ、その御助けを貰うには、たのまにゃならぬ、称えにゃならぬと、迷って御座る人々のために。先ず私は、たのむと称うるの価値ということについて、前席より御話しを申しかけた次第であります。


 それについて思い出したは。加藤恵証師の木像画像論の中に、面白い話が載っていた。詳しいことは記憶してないが、たしか明治四年の頃。大阪の近在に、初めて小学校というものが設けられたときのことである。
 
 
 村内の人々は、今迄寺子屋というて。お寺に通わせて、読み書きを習わせてあった、週間を一時に改めて。見たこともない学校などへ、出すことを甚だ嫌っておる。それを一々説諭して、漸く不承不承にも、学校へ出させてところ。計らずも僅かの間違いより、一村こぞって学校から子どもを引かせてしもうたことがある。
 
 
 その騒動の起こりというは、修身の過程を授けるについて。今日のごとく、教科書も調ってない頃のことであるから。生徒を一堂に集めて、忠臣孝子や英雄豪傑の、歴史話を聞かせることにしてあった。

 ある時先生が、支那の司馬温公の話を聞かせました。
 この話は皆様も御存知の通り、司馬温公が七八歳の頃。多くの子どもと庭園で遊んでいた、そこに大きな水がめが有って。それに登って子どもが水鏡を見ているうちに。一人の子どもが過って水がめの中へ落ちたので。多くの子どもは驚いて、家人へ知らせに、走って行ってしもうた。

 その時温公一人踏みとどまり、待てよ、家の者の来るまでに、落ちた子どもは死んでしまう。この瓶が、たとえ何程の値のするものにせよ。人間の命にはかえられぬと、気付いた温公。忽ち手ごろの石を拾って、その瓶に打ち付けた。瓶は割れる、水は出る、子どもは無事に助かったという。
 
 
 この話を持ち出した先生は、詳しく生徒に物語り。何と諸君、司馬温公という御方は、感心なお人でしょう。外の子どもは瓶を割って、命を助けるという、智慧がなかった。然るに温公一人、幼少の時からかかる智慧のあったものゆえに。落ちた子どもが助かったのみならず。自分も後には、尊き官吏になられました。諸君も将来出世して、名高いものになりたいと思ったら。悪い遊びをすることをやめて、かくのごとき善良の智慧を、発すことに鍛練せねばなりませぬぞと。懇ろに生徒を教訓した。
 
 
 斯かる結構な歴史話が、騒動の種となったが面白い。
 その日の学校は閉まって、生徒はそれぞれわが家へ帰った。お母様ただ今帰りました、と挨拶するや否や、いつも欲しがる御菓子も貰わず。急いで台所へ行って、大きな音をさせておるので。母親は怪しみて次郎や何をしたの!と尋ねれば。
 次郎は得意の返事で、お母様ただ今瓶を割っておりますというから。母親は驚いて行って見れば、梅干し瓶に石をぶつけて、割ってしまってある。
 コリャ次郎や、お前は気狂いにでもなったのか。なぜこんな悪いことをするのじゃ、大いに叱りつければ。
 先生から教えてもらって来たという。
 なんじゃ先生が、こんな悪いことを教えるものかといえば。
 隣の太郎さんにも聞いて御覧、子どものときから瓶を割る、智慧のないものは。将来名高いものには、なられんと、確かに先生がいわれましたというから。あまりのことに母親は、隣へ駆けつけて見ると。
 ここの太郎は、辣韮瓶を割って叱られておる。彼処では味噌瓶が割られた此処では奈良漬け瓶を割ったという始末で。学校へ子どもを出しておく家では、残らず瓶を割られてしもうたので。
 ソリャ見たか、今の学校などではロクなことを教えるものか。これじゃからわしらは、学校へ出すことに反対したのじゃ。それを無理に引き出して、斯かる悪時を教えるとは、言語道断じゃ。矢張りもとの寺子屋に限るというて。村内一同学校から、子どもを引かせてしもうたという話である。


 皆様は腹を抱えて笑って御座るが。よく考えて見れば、子どもとしては聞き違いをするも無理はない。肝心な落ちた子どもを助けると言う、大問題には気がつかず。司馬温公が石を拾ったなぁ、瓶にかちつけたなぁ、瓶が割れたなぁと。瓶を割るということにのみ、興味を以て聞いておるところへ。先生が又いって聞かせる。多くの子どもは瓶を割るという、智慧は起こらなんだに。さすが司馬温公一人、この智慧を発したは感心である。諸君もかかる智慧を発さねばならぬぞ、というものじゃから。無邪気の子どもは瓶さえ割れば、名高いものになられると考えて。斯かる間違いの起こったものを、誠に是非もない次第である。
 
 
 こんな話はどうでもよいが。笑って御座る皆様も、これに似寄った間違いはあるまいか。五年十年足手を運び、大事をかけて聞きながら。たのめの仰せに迷い込み、称えよの御意に屈託して。これさえできれば当たり前で参れるように心得て。三千世界に並びのない、仏智無辺の御助けを、深く聞く気の御座らぬは。今の子どもが瓶さえ割れば名高いものにならるると思い違うた間違いより。百千万倍も大きな間違いであるまいか。
 瓶を割るより値打ちのない、たのむと称うるに値打ちを付け。子どもの助かる話でない。堕ちるこの身をこのままで、助けて下さる値打ちを知らず。丸々値打ちをふみ違い、迷うて御座るそのうちに。瓶を損じたぐらいじゃない、大事の後生を丸損じ。落ちて沈んで仕もうてから、泣いて叫んでみたとても。返らぬことと気をつけて、本願の正意に落ちつくまで、命をかけて聞きましょう。