安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心=自分の罪悪が知らされること」と考えるのは間違いです。なぜなら、親鸞聖人は、信心とは阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことだと言われているからです。」→本願に唯除五逆誹謗正法とあるのを親鸞聖人はどう聞かれて、上記のような書き方になるのか不思議です。(tomida makotoさんのコメントより)

tomida makotoさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

tomida makoto 2015/06/28 13:31
だからと言って、「信心=自分の罪悪が知らされること」と考えるのは間違いです。なぜなら、親鸞聖人は、信心とは阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことだと言われているからです。

あまり長々と文章読めないのでm(_ _)m
全体を読んで質問すべきなのですが、すいません。

親鸞聖人は、信心とは阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことだ
本願に唯除五逆誹謗正法とあるのを親鸞聖人はどう聞かれて、上記のような書き方になるのか不思議です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20150612/1434095479#c1435465880

長文は苦手とのことで、短く書きます。
親鸞聖人は、「唯除五逆誹謗正法」と本願文にあることを、「全ての人を救うという阿弥陀仏の本願だ」と読まれました。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P664)

http://goo.gl/8ouQl7

五逆の人も、誹謗正法の人も、その罪を「恐ろしい」と最初から思っているわけではありません。その人に「五逆、誹謗正法」は本願から除かれる程の罪だと知らせて、そのものを救うと誓われたものだと親鸞聖人は見られました。

このように「五逆謗法」が恐ろしいものだと知るのは、既に阿弥陀仏の本願の法を受け入れるからです。

その意味で、信心は阿弥陀仏の本願を聞き入れることであります。その聞きいれる上で、自分の罪悪を知らされることもありますが、それはあくまで本願を聞き入れた上でのことです。その本願を聞き入れることを抜きにして、「信心=自分の罪悪が知らされることというのは間違い」と書きました。

いわゆる二種深信でいえば、機だけで法がない深信をさして、これが信心だというのは間違いだと書きました。

もう一つのことは、また明日書きます。今回のエントリーで疑問があれば、またコメントをよろしくお願い致します。