安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編 松澤祐然述「1 たのむも信ずるも要らぬ御勧化」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

1 たのむも信ずるも要らぬ御勧化

今日もお変わりなく、ようこそ御参詣下さいました。
かくのごとく座に座を重ねるにしたがって。いよいよ親しく御話もさしていただけますが。

しかし、お互いの存命中には。もう、何度ほどお逢いができるものでしょう。私から始め、無事達者で暮らしておれば。いつでも聞かれるように、油断をしておりますが。無常迅速は世の習い。これで私がお話しの、終いになるやら、皆様はこれが聞き納めになるのやら。

一寸先は更にわからん、身の上なれば吉田の法師が徒然草の中にも。『はからざるに病をうけて、此世をさらんとする時にこそ。初めて過ぬる方の、誤れることはしらるれ。誤りといふは、他のことにあらず。速やかにすべきことをゆるくし、緩くすべきことを急ぎて、過にしことの悔しきなり。其時に悔ゆるとも、甲斐あらんや。』と申してある如く。

窮まるに臨んでこれを悔ゆるとも、また何ぞ及ばんや。
蓮如上人も。
『命のうちに不審もとくとくはれられ候はでは、定めて後悔のみにて候はずるぞ、御心得あるべく候。』
と御意見下されてあれば死んでから決まる往生じゃない、落ちてから助かる未来じゃない。今此のお座が御助け治定の場所なれば。この座限りととりつめて、ゆめゆめ後悔のないように、聞き明かして頂きたいことであります。


さてこれまでは真宗一流の安心は。凡夫の機の上に、発るものに違いはなけれども。我等の智慧や分別や、考えや、思惑で、起すのではない。その体全く他力廻向の御六字が我が機の上に。働いて下さるる形を、信相と申すのじゃ、ということは。行きつ戻りつ御話しを尽くしましたが。皆様も大略は、御得心ができましたことでしょう。


然るに近頃は、あちらこちらの同行に。大事の要を聞き誤り。僅かの文句や言葉に拘泥して、善しや悪しやと。迷って御座る輩が、ポツポツ見ゆるようである。

両三年以前のこと。越後の長岡から、新潟へかけて、各地共、大評判で巡回せられた、某布教者がありました。
参詣の沢山ない布教者に、異安心などといわれた人は。古往今来、聞いたことはありませぬが。某布教者は、何処も群参であつた為でもあるまいか。たちまち異安心という。評判が専らになり。甚だしきに至っては、統理大衆一切無碍と敬礼して、和合を本とすべき僧侶までが。同行と付和雷同して、某布教者を攻撃したような、話しも聞きました。


私は年中自国では不在がちで、詳しいことは知りませなんだが。この頃ちょっと帰国しておるとき、ある同行が一人参りまして。計らずも某布教者の話しが出たなら。其の同行は乗り気になって。


『いや、あの御方のお勧めは、私も参ってみましたが、まるで間違った御話で。異安心も異安心も、大異安心でありますよ。』
と申すので私も。


『これは驚いた、同行衆が聞いてわかるような異安心では。余程変わった勧めようをせらるるに相違ない。全体某布教者は、どういう話しをなされたか。』
と尋ねたれば同行が申すには。


『あの御方は、たのむも要らぬ、信ずるも要らぬという。御勧めでありますもの異安心に決まっています。』
そこで私は。


『なるほどそれはご尤もじゃ、たのむも信ずるも要らぬとは、言語道断じゃ。しかし、当流は信心為本であるということは、小僧でも知っておる。
 しかも代々の善知識は、たのむ一念のところ肝要なりと御勧め下され。蓮如上人は、雨の降るほど、弥陀をたのめ、一心にたのめ、ひしとたのめ、と御化導下されてあるにもかかわらず。かりそめにも袈裟衣着た布教者が。高座の上に堂々と、信ずるもたのむも要らぬなどとは、申さるる訳はないはずじゃに。それを言われたものとすれば、そのいわるるには、必ず訳がなければならぬ。
 こう言う訳じゃでたのむは要らぬ、斯かる次第なら信ずるも要らぬと、随分説明があったであろう。その後先の訳は、御同行、お前は何と聞き取ってこられたか。』
と申したれば、今の同行。


『私はそのあとさきの詳しい話しは、聞きませんが。』
と答えたので私は。


『これはおかしい、訳も言わず、理屈も述べず、某布教者は高座の上で。たのむも要らず、信ずるも要らず、たのむも要らず、信ずるも要らず、あなかしこあなかしこ……という説教であったのか。
 それでは説教になるまい。御同行、お前は、訳もわからず、道理も聞かず、ただの一言をつまみ採り。某布教者を異安心などと申すことは、いかにもお前の邪見ではないか。我が身の出離を余所にして、説教者のよしあしに力をいれ。同行という身分を忘れ、勝手に布教者を誹謗して。何とも思わぬぐらいなら、御座へ参るをやめたがよい。
 それは後生を願いに参るのではなく、曾婆羅頻多羅地獄へ堕ちる、種まきに参るというものじゃ。お前のような同行を親鸞聖人は正信偈に。『邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯。』とお叱りなされてある。殊に異安心ということは、布教上からいえば人殺しも同様。信仰上から言えば間男みたようなもので。軽々しく人に対して、異安心呼ばわり出来るものではない。
 たとえ愚夫愚婦の身の上でも。あの男は人殺しじゃの、あの女は不倫をしたのということが容易に口外は出来まいに。信仰を本とするお互いが、同行たるべき身をもって。僧侶に対して異安心とは何事である。これが慚愧の出来ぬことならば、お前は宗教上の人非人である。』
と厳しくある同行を戒めてやったことがありました。これは誠に、情けないことであります。