安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「36 唯信鈔の取捨」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

36 唯信鈔の取捨

 然るにこの綱に縋って引き上げてもらう譬えは、某師が自身で考えた話ではなく。皆様も御存知の通り、唯信鈔という御聖教に出てあるので、その文を読んで見ると。

たとへば、人ありて、高き岸の下にありてのぼることあたはざらんに、ちから強き人、岸のうへにありて綱をおろして、この綱にとりつかせて、「われ岸のうへにひきのぼせん」といはんに、ひく人のちからを疑ひ、綱の弱からんことをあやぶみて、手ををさめてこれをとらずは、さらに岸のうへにのぼること得べからず。ひとへにそのことばにしたがうて、たなごころをのべてこれをとらんには、すなはちのぼることを得べし。仏力を疑ひ、願力をたのまざる人は、菩提の岸にのぼることかたし。ただ信心の手をのべて誓願の綱をとるべし。(唯信鈔10 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1349)

http://goo.gl/hBNUEF

とある、譬えの様子は多少違っているけれども、根本の味わいは同じことなので。私は某師の説教を聞いて不審が起こると同時に、この唯信鈔の御譬えが心に落ちないことになって来た。


 どうしても自力他力の出し合い話で、二十願の味わいには譬えられるが。第十八願の絶対他力の味わいには用いられぬと思っているけれど。私の所存が間違っておるので、某師の説教の通りでよいのかしらとも思われ。聖教としては捨てられず、自己の信仰としては用いられず、心甚だ迷って来た。
 
 
 殊にこの譬え一つのことならば、取るも取らぬも抜けものにしておけるが。絶対他力の立場から言って見ると、綱に縋って引き上げてもらうような味わいでは、信仰の全体が動いて来る。自分の信仰に動き出されては、説教も法話も出来るものではない。五三の友人に質問をして見たが、誰も満足の解答を与えてくれぬので。もう仕方はない、一時も捨ててはおかれずして。急に汽車の中へ飛び込んで、300マイル夢の心地に走りつけ、京都の旧師に拝謁し久闊*1の御礼をのべ。早速来意を告げて、質問の矢を放ち。
 
 
『この唯信鈔の譬えは、到底当流の安心には合わぬように思われますが。信心の手を延べて誓願の綱をとるべしとあるは、如何に得たものでしょう』。
と御尋ね申上げたれば、和上は餘り蒼惶*2たる私の様子を見咎めて。

『松澤貴公は近頃廃学しておるものと見えるな。常に書物さえ読んでおれば、是しきのことにあわてる用事はないのじゃに。学問をやめておるから、解りきつたことが解らぬようになってしまう。貴公は唯信鈔は何人の御作か知っておるか』

『ハイ彼書は聖覚法院の御作であります』

『うむ、聖覚法院は当流の祖師様か』

『いえ、祖師様ではありません』

『それ当流の祖師でない御方々の書物を読むときは。必ず相承の祖師様の御眼鏡をかりて読めと、いつも教えておいたのを忘れたか。
 安心決定鈔を見るには蓮師の御指図に従わねばならず。殊に唯信鈔には、わが祖が唯信鈔文意というものを書いて下されてある。仮名書きの平易の唯信鈔を、唯信鈔のままに用いてよいことなら。わが祖が文意を御書きなさるる必要はない。
 たとえわが祖が兄弟子として崇めてござる、信の座におつきなされた聖覚法院でも。安心の極致に至っては、同意のならぬことがあり。唯信鈔をそのまま用いかねる点があればこそ、わが祖はわが祖の御眼鏡で、唯信鈔を御読みなされた味わいを、文意として書き残して下されたものである。
 この故にすべて他宗他派の書物を扱ふには、当流の安心に合わば取るべし、合わざれば遠慮なしに捨るべし。殊に今の綱に縋る譬えは、わが祖は御用いなさらぬから、文意の中には除いてあるぞ』。
と懇ろに和上の御聞かせに預かったので。私は実に夢のさめた心地して、一つは自分の軽率を恥じ、一つは和上の明教を謝し、厚く御礼を述べて帰国したことがある。


 それより以来私はこの綱に縋る譬えは、断然用いられぬことに確信が出来。祖師聖人が唯信鈔文意の中に、御用い遊ばさらぬ思し召しもわかり。大いにに鼓吹*3したいことになりて来たのであります。
 然らば御文の中に、ひしと縋り参らする思いをなしてとある、この思いは自力であるか。絶対他力には縋る思いは要らぬのか、という難問が起ってくる。是がいよいよ自力他力の水際の分かれ目で、大切なところであるから。皆様も心を静めて暫時次席を待って聞いて頂きたい。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録

*1:長い間会わぬこと。また,便りをしないこと。無沙汰(ぶさた)。

*2:そうこう…落ち着かないさま。あわてるさま。

*3:こすい… 意見を盛んに主張し,他人を共鳴させようとすること。