安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「35 綱にすがるは半自力」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

35 綱にすがるは半自力

 私はこの御話しを聞いたとき、誠に不審に堪えられぬことになって来た。
 その訳は井戸の中から綱に縋って上げて貰うことにしては、どうしても自力他力の出し合いになる。引き上げてくれる男が千人力あっても、上げて貰う少女の力が足らぬときは、首尾よく上がることは出来ぬので。実に心配なのは少女の力、サアしっかりしてしっかりして、モウ少しじゃモウ少しじゃ、と引き上げて貰う少女も金剛力で縋っていたが。僅かもう二三尺の所へ来て、少女の力が尽きてしまうたら、又もとの井戸の中へダボンと沈んでしまわねばならぬは明瞭のことである。
 
 
 我々がこの度助けたまへとたのむのが、たとえ先手の呼び声で縋る思いを起したにせよ。呼び声は先方で思いは此方、こちらの思いで縋るものなら、平生の時はそれでよい、嬉しい有り難い仰せを聞いて、斯かるものをも御助けと、確かに縋っておらるるにもせよ。あの世この世の境となり、臨終間際の僅かなところで、縋るこの機にゆるみが出て、遂に地獄へ落ちてしまうようなことはあるまいか。
 
 
 何れにもせよ、綱に縋って上げて貰う譬えでは、何んと詮議をして見ても、半自力半他力の分際で、絶対他力とは申さらぬ。
 つまり届いた御助けの法の外に、受け手前の意業作業を加えて、往生をきめる話しで。是が所謂、是名清浄之業の業の字を、業因の義に取りきりにしておけずして、是非業作と顕われねば正定業とは申されぬという、鎮西臭い話になってしまうのである。
 
 
 その様な法門は今日の話でないから、それは学者の研究に譲りておいて、先づ事実に就て皆様から篤と考えて見て頂きたい。落ちた少女にこの綱に縋れというたら、わきひら見ずに取り縋る外はあるまいというは。一応は誠に御尤も至極のようなれど。そんな話は少女の落ちた当時のことで、元気も力もあるうちなら、縋ることも出来ようが。落ちてから一日餘りも過ぎたものか、又落ち様が悪くて半死半生になっておるものなら、丸で話が滑稽になってくる。少女の落ちたは何時でもよいが、御互いの落ちたは何時でしょう。皆様は是から落るような考えを持っては御座らぬか。


 私が若年ころ京都にいて、宗乗の研究をさせられたとき、何の話しの行き掛かりであったか、忘れてしまうたが。
『我々は生死の海に浮きつ沈みつ苦しんでをるもので』。
と弁じ出したところを、師匠が聞いて御座って。
『松澤』。
『ハイ』
『貴公は今生死の海に浮きつ沈みつというたが、貴公は何時生死の海に浮いたことがあるか』。
と仰ったから私は臆面もなく。
『只今浮いておることと思っています』。
と御答え申したれば師匠は大喝一声。
『何馬鹿をいうておる今が沈んでおる最中じゃ』。
といわれたので私は少し合点がゆきかねて。
『然らば生死の海に浮いておるものは、どの様な御方でありますか』。
と御尋ね申したれば
『そうじゃ浮いて御座るは、龍樹菩薩や天親菩薩のような御方々である』。
と教えられたことを今に忘れませぬ。


 成る程龍樹天親の菩薩方が、浮いて御座るものとしてみれば、我々はそれより四十段も深い底に沈んでおるので。これから落ちても地獄と餓鬼と畜生の三段だけじゃ、しかも御和讃を読んで見れば、生死の苦海ほとりなし。浮きつ沈みつの我等とはいうてない。ひさしく沈める我等というてある。
 
 
 ことに善導大師の機の深信釈には、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より以来、常に没し常に流転してとあれば、現在常没の我身である。常没というは、海の表面には顔でも出す気遣ひのないかたちである。然るに私から初め、是から落るか、是から沈むような考えで、師匠に叱られたのは全く機の深信のない証拠であった。
 
 
 そこでいよいよ常没常流転と、久しく沈みきったるこの身なりと、機の絶対なる値打がきまって見れば。今井戸に落ちた少女に、この綱に縋れよと聞こえた一念、両手延ばして縋る思いの外はあるまいなどという、正気の出し合い話では。一向絶対他力の、法にも合わず機にも合わぬ世間普通の造り話で。つまり一時有り難がらせの御伽話になってしまう次第である。

つづきはまた次回のエントリーに掲載します。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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