安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「34 綱にすがる譬」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

34 綱にすがる譬

『朝霧や呼べばこなたに渡守り』。
 朝霧に立込られて一寸先の見えぬ渡船場。船頭は定めて向うの岸におるであらうと、大声上げてオーイと呼んで見ると。豈計らんやこちらの足元よりオーイ船は出ますぞと応えてくれたので。アア遠い処を尋ねるでなかった。近い処にあったことよ、という味わいを読んだが只今の一句である。
 
 
 サア皆様よ、この度後生の一大事も、不了仏智の霧深く、方角解らぬ御互いのならいとはいい乍ら。心得易い安心を、今日が今日まで狼狽えまわり。どうたのんだら助かるであらう、どう思ふたら参れるであらうと。行きつもどりつ難儀してのは、近い手元の六字の中に、たのむ機もあり御助けの、手柄のあるを知らずして。たのむといへば我がする、助けるといへば浄土に御座ると考へて。
 
 他力他力といい乍ら、自力意業のこの機と助ける法を、出合いするか交換するか。信心の切符で御助けの船に乗る様なつもりになり。機法一体を二体に離し、離した二体を又一体に合せて見ても継子育ち。破れた茶碗を焼き接ぎして、用いるような気まずい危い、心地の取れぬ聴聞では、今度の後生の用には立ませぬゆえ。何卒明信佛智と明かに六字の手柄に満腹の出来るまで聴聞に心をいれて下さい。
 
 
 それに付いて私が先年のこと、ある派内に有名なる布教者が。井戸の中へ落ちたものが、引上て貰ふ譬えを以て、他力信心の味わいを滔々と勧めて御座る法席で聴聞致したことがある。
 
 
 その話の大要は。廣い野原に古井戸がありて、その井戸側が残らず腐つて仕まい、草が覆いかかつて、井戸があるさえ確かにわからぬ程になつている所へ。一人の少女が草摘みに来て、誤ってその井戸へダボーンと落てしまった。
 
 
 サァ少女は驚いて、助けてくれ助けてくれ、と呼べども叫べど野原の中では人はいない。 何んとかして上りたいものじゃと思って見ても、何分井戸側が腐ってあるので、手がかりも足がかりもない。そこへ細い藤蔓が一本下っておるので、これ屈強の力綱、是に縋りて上ろうとかかかって見たが、残念やその藤蔓が根本からブツツリ切れてしまった。
 
 
 もう絶体絶命可愛や少女は井戸の中で死ぬより外は仕方がないと覚悟していたその処へ。一人の男が通りかかり、どうやら野原に人気がするぞと尋ねて見ればいまの有様。見付けた男は驚いて、幸い持合せた大丈夫の綱を下げ。サァ少女よ引上てやるからこの綱に縋れよと、呼び掛けられたその声が、聞こえた少女の心はどうじゃ。この綱が強かろうか弱かろうか、と疑っておらるる場合じゃあるまい。男の力が足るか足らぬか、と二の足ふんでおられようか。聞こえた一念両手を伸ばして、縋りつくより外はあるまい。


 今井戸の中へ落た少女というは在座の我々、呼べど叫べど人はないというは、釈迦牟尼如来は三千年の昔に御かくれなされ、弥勒菩薩はお出ましなし。前佛後佛の中間の、広い野原に何とかして井戸の中から、助かりたいと思へども。井戸側が腐ってあるとは、善根功徳は腐りはて、是で助かるという手がかり足がかりは更になく。
 
 
 そこへ一本の藤蔓と譬えたは、たまに御座へ参りて、嬉しい思いや確かの味になられたとき。この屈強の力綱、これで往生と出掛て見ても、哀しや歓喜の藤蔓は根本から切れて失せ。所詮助かる道はない、無有出離之縁と機の深信の出来た所へ。通りかかった一人の男とは、有縁の善知識に譬えたのじゃ、本願名号の丈夫の綱を下げ与え、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのめ必ず助くるぞよの呼び声が。仕方の尽きた心の底へ、聞へた一念はどうである、彼や是やと二の足ふんでおられようか、斯かる者をも御助けはあなた御一仏ぞと、信心の手を延べて縋る思いの外はあるまい。是が当流の助けたまえとたのまれた、一念であるぞよという、某師匠のお聞かせでありました。

35 綱にすがるは半自力

私がはこの御話を聞いたとき、誠に不審に堪えられぬことになって来た。

つづきはまた次回のエントリーに掲載します。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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