安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「29 断りが遅いと仏になるぞ」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

29 断りが遅いと仏になるぞ

 私の檀中に、越後の貞信といえば、真宗の信仰界に、誰れ知らぬものはない、妙好人がありました。惜しいかな明治四十四年の三月七日、八十三歳を一期として、目出度く往生をとげました。此貞信が存命中に、不言不語の間に、絶対他力の真味を我々に知らせてくれた恩は、実に少くはありません。
 
 
 しかも貞信の胸中には、自分が信者らしゅう他人に思われては、大変じゃという考えを、常に守り本尊の如く仕ていた尼でありましたから。いつも他人の美譚を持出して、話しの止が、とても私共の真似でも出来ぬ有り難い御方でありました、と謙退(ひきさが)りておる外に。自身の喜んでおる事や、聞き覚えたことなどは、頸切られても物語らん性質でありましたが。
 
 
 ある時どうしたはずみか私に向い、生涯にたんだ一座覚えこんだ説教があります。それが非常に短い御説教でありますから、貞信の様な物覚えの悪いものまで、忘れずにおりますと話し出し。五乗院様が、講師職におなりなされた時の逸話を物語ったことがある。
 
 
 その話しの中に、たのむ帰命の一念には、とても自力意業の、よりつかれぬ味わいがありますから。今六字の船に乗込む一念を助成するに付いて、その話を受け売りして見ましょうが。皆様も暫く耳を貸して下さい。


 今日でこそ御講師が五人も六人も揃うて御座るが。昔は御講師といえば、日本中に御一人さえなかった時代が多かったので。その頃は講師職におなりなされた御方は、是非共京都にいて、善知識の御化導の、御補佐を申上げねばならぬので。五乗院様も、いよいよ講師におなりなされて見れば、もう江戸におることはならぬ。是より京都へ上って、学問と討死すると仰せらるるので。永々御育てを蒙りた江戸の同行が名残を惜み。
「何卒御出立の朝は、御別れの御座を開いて下され」
と御願いした。

 五乗院様も快く御承諾遊ばされ、偖(さて)その当日の朝となりたれば。江戸中の御同行、今日こそは御講師の御説教、此世での聞きおさめと、くらいうちに御堂一杯つめかけて、今か今かと御出ましを待っていた。そこで四つ時分になりて漸く高座へ御登りなされ、その時の説教が驚くほど短いので。貞信の忘れんでおるという説教が、是でありますから、皆様も心静かに聞いて下さい。
 
 
 先ず初めが
『皆々早朝より参られて、奇特のことである』。
 是は御挨拶の御言葉で、その次は。
『時に檀上に御立掛りの親様はなあ、御前たちの罪の持合せの身代ありだけ引受けて、助けるぞと仰しゃるから、難有う心得て御念仏致されよ。法座は先ず是にて存略』。
と早や御説教がすんで仕もうたソシテ高座より下り際に。
『しかし罪の身代減らして行ってはすまんぞよ』。
といい残して、早速御立なされて仕もうた。


 参詣の同行は、今讃題でも演べて御座るのであろうと思うておるのに。忽ち高座から御下りなされたものじゃから、大いに驚き。御講師様はどうなさった、御加減でも御悪いのか、どうじゃどうじゃと騒ぎ立てた。そこで高座のもとに参っていた、耳の堅い同行が、一同を鎮め、最う御説教は御済みになったのじゃ、と知らせたところ。一同はあきれ返り、早や済んだとは何事である、こんな短い説教があるものか、と愚痴をこぼすので。
 
 
 前の同行は一同に向い、長い御話しでさえあれば、皆様は難有いと思うて御座るか。只今御講師様の御話しは、誠に短いことではあるが、至極難有いことでありましたといえば。
 一同はその様の御説教を我々は聞き損じ、残念のことを致しました、何卒御話しの大要を知らせて下されと。一同は前の同行より、是れ是れの御示しであったと聞かせられ、去れば我々も有り難く戴かれますというような始末。余り短い御説教で、肝腎の善知識は、御座敷で法衣(おころも)を脱いで御座る頃になりて、漸く末座の同行が、有り難くなって来た、という様な可笑しい話し。
 
 
 然るところ爰に一部の同行が、三々五々と集って。
「只今の御教化は如何にも不審に堪えない」
といい出した、その訳は
「阿弥陀如来が、罪の有丈け引受けて助けて下さるる位の事は、いかなるものも知りておる。抑も当流はたのむ一念のところ肝要でないか。只今のような御話しでは、大事のたのむ一念の立場が更にわからん、皆様腹がふくれましたか、とても腹はふくれません」
と仲々六ヶ敷(むつかし)い議論が出て来た。


 五乗院様は素よりその様の話しは一向御存知なく、御急(おせき)になる御道中のこと故に、早や御籠に召(めし)て御出立になりた。その頃は御講師には大名の格式で、道中を許されてありたものゆえに。槍まで立て、下に下にと、御伴勢(おともしゅう)やら御見送りやら、仲々の混雑であった。御堂に居残る同行は、御膳は引けても、腹はふくれぬという風情。一念の立場はとてもわからん。
 
 
 そこに一人の男がありて、
「是は爰で議論しておる場合ではあるまい。最早や善知識は御出立、今日聞かねば無量永劫の損をする」
と、無言のままに立上り、裸足になりて御籠のあとを追いかけた。


 皆様よ、是が如実の同行と申すもの。御座へ参りて聞き乍ら、合点のゆかぬ事柄を、蔭でよしあし並べたて、進んで聞く気のないものを、邪見我慢と申します。兎角此種の同行が、世間に多いものじゃのに。今の男は一心不乱に走り出し、一里計りのところで大勢の仲をおしわけて、御籠に縋りて、
「暫く暫く」と御願いした。

 
 そこで五乗院様、手づから御籠の戸を開き。
『何んぞ不審があって来たかや』。
の仰せ、今の男は大道中に下座をして。
『誠に御道中の御邪魔申して済まざるわけでありますが、何分今朝程の御教化。心をいれて聴聞をして見ましたが、どうしてもたのむ一念の立場が解りませんので、爰迄御尋ねに参りました』。
 その時五乗院様、御籠の中よりの御示し。


 サア皆様よ、昔話と余所事のように聞いて御座りては、御徳がとれませんぞ。我身が今大道中に下座をしている心になりて、耳を傾けて下され、その時の御諭しに。
『よう尋ねて来られたのう、御前達は、漆でつけたように、しっかりとして参るつもりであるけれど。それはどうもならぬので。このぐらぐらした心中のままで、引受て助けるぞと仰しゃるのじゃが。こう聞いたら左程いやでもあるまいが。いやなら早く断りをいいやれや。断りが遅いと仏になるぞ』。
との仰せ、今の男は驚いて。
『ハアーハアー』。
と感じいりたる相を御覧なされて、五乗院様。
『親父それが早や歓喜の相じゃよ』。
と仰せられた、今の男はまだ腹におちかねて。
『そんなら一念の立場は何処に』。
といわせも果てず、五乗院様。
『何を愚図愚図いうておる、一念の立場は、お前が今ハアーハアーといわぬ先に、済んであることじゃわい』。
と御諭しなされたので、今の男は大道にひれふして、今日迄の心得違いを謝りはて。
『されば届いた仰せ、たった一つが頼まれた一念でありましたか』。
と大いに感涙にむせんで御別れをしたという御話しである。

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以名摂物録(松澤祐然述)「30 乗せられた信相」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録